三人の地図
七月に入ると、丹波から届く報告の内容が変わった。
秀吉軍が止まった。
正確には、戦をやめたのではない。
丹波攻略そのものに目途が立ちはじめると、攻略の仕上げを古参の者たちへ任せ、羽柴秀吉直属の軍勢を前線から少しずつ下げ始めたのである。
休ませている。
兵を休ませ、傷んだ装備を直し、減った兵を補い、隊を組み直している。
そして丹波で再編成を始めた。
その報告を持ってきた間者が退出すると、黒田官兵衛はしばらく何も言わなかった。
少弐も黙っていた。
まだ皆を集めて評定を開く前だった。
清盛館の一室。
二人の前には丹波から播磨、摂津、兵庫津までを描いた地図が広げられている。
黒田が口を開いた。
「嫌な動きですな」
「やはり?」
「丹波でまだ戦うのであれば、前線で休ませればよい。わざわざ直属をまとめ直している」
黒田の指が丹波をなぞる。
「次に使うつもりでしょう」
「どこへ?」
「それをこれから考えます」
黒田らしい答えだった。
少弐はそこで、
「その前に、一人会わせたい者がいる」
と言った。
黒田が顔を上げる。
「入ってくれ」
戸が開いた。
スリフォンが入ってきた。
シャムから戻ってまだひと月ほど。
兵学館の教官を辞め、神戸へ移ってきたばかりだった。
少弐が二人を紹介する。
「黒田孝高殿。こちらがスリフォン」
スリフォンが一礼した。
「初めてお目にかかります」
黒田も礼を返す。
「お名前は聞いております。兵学館で教えておられたとか」
「以前は」
「以前は?」
スリフォンは少し笑った。
「もう辞めました」
黒田は少弐を見る。
少弐は説明しなかった。
代わりに本題へ入った。
「今後、スリフォンには鷹衆を預ける」
黒田の眉がわずかに動く。
「鷹衆を?」
「全員だ」
「三百を」
「うむ」
黒田はスリフォンを見る。
鷹衆がどういう連中か知っている。
兵というより山賊に近い。
山に入れば恐ろしく役に立つが、普通の軍勢として扱おうとすると途端に面倒になる三百人。
「大変なものを預けられましたな」
黒田が言う。
スリフォンは平然としている。
「三百もいただけるのであれば十分です」
黒田が一瞬黙った。
少弐は笑いを堪えた。
「そう言うと思った」
「普通は嫌がるところですが」
「人がいるのでしょう?」
「おります」
「ならば使います」
黒田は少しだけスリフォンを見る目を変えた。
だが、今は人物評をしている場合ではない。
「ではスリフォン殿にも聞いていただきましょう」
黒田は地図へ向き直った。
指先を丹波へ置く。
「仮に――」
そこから指を南へ滑らせた。
「秀吉が南下した場合です」
三人が地図を見る。
丹波から摂津へ。
さらに兵庫津。
「兵庫へ直接来る?」
少弐が尋ねる。
「可能性の一つです」
黒田は言った。
「ただし問題があります」
指で距離を示す。
「遠すぎる」
兵庫津まで敵を引き込んでから迎撃するのでは遅い。
夢野や鵯越で一度秀吉と戦っているとはいえ、毎回兵庫津のすぐ裏まで敵を通すわけにはいかない。
まして今の兵庫津は以前より大きい。
倉庫もある。
商人もいる。
船も集まる。
少弐の家族も有馬にいる。
「どこか途中に拠点が必要です」
黒田が言った。
「城ほどのものはいらない。しかし兵を置き、兵糧を蓄え、街道を監視できる砦が欲しい」
少弐が地図を見る。
「どこがよい」
黒田がいくつか候補を示そうとした。
そのときだった。
「ここでは?」
スリフォンが言った。
初めて口を挟んだ。
黒田が見る。
スリフォンの指は城跡でも峠でもなかった。
地図に記された――
寺。
少弐がスリフォンを見る。
黒田も寺を見る。
「寺ですか」
「はい」
スリフォンは当然のように答える。
「借りましょう」
黒田が吹き出した。
声を上げるほどではない。
だが明らかに笑った。
スリフォンは少し不思議そうにする。
「何かおかしいでしょうか」
「いや」
黒田はまだ笑っている。
「初対面ですが、少し安心しました」
「何がです?」
黒田は少弐を指した。
「この御仁と旅をして帰ってきた方なのだと、よく分かりました」
「どういう意味だ」
少弐が不満そうに言う。
黒田は答えず、改めて寺を見る。
そして笑みが消えた。
「……しかし」
指を置く。
「悪くない」
スリフォンも地図を見る。
「城を一から造れば、こちらが何を考えているか敵にも分かる」
黒田が頷く。
「寺なら、すでに建物がある」
「水もあるでしょう」
「道もある」
「人を泊められる」
「食料も置ける」
「高所なら見張りにも使える」
二人の会話が急に速くなった。
少弐は黙って聞いている。
スリフォンが続ける。
「もちろん寺を城にはしません。僧には残ってもらう。必要な建物だけ借りる」
黒田が言う。
「外から見れば寺のまま」
「兵を常駐させる必要もありません」
「必要なときだけ入れる」
「兵糧と最低限の道具を置いておく」
黒田は地図から顔を上げた。
スリフォンを見る。
最初に鷹衆三百を預けると聞いたときとは、明らかに目が違っていた。
「スリフォン殿」
「はい」
「あなたとは、話が早そうですな」
スリフォンは少し考え、
「私もそう思います」
と答えた。
少弐は二人を見る。
まだ初対面である。
なのに、すでに地図の上では同じ場所を見ている。
少弐はなんとなく嫌な予感がした。
敵にとって。
黒田が寺を指で叩く。
「では、まずここを調べましょう」
スリフォンが頷いた。
「鷹衆を何人か出します」
「もう使うのですか」
「私の兵になりましたので」
黒田がまた笑った。
こうして、まだ正式な評定すら始まっていないところで、
黒田官兵衛とスリフォンは初めて同じ地図を囲んだ。
後に敵から嫌というほど警戒される二人だったが――
その最初の共同作業は、
城を造る相談ではなく、寺を一つ借りる相談だった。




