鐘丸
有馬へ帰って数日。
少弐は、ようやく家の時間に身体が馴染み始めていた。
南方へ出る前と一番変わったのは、雲丸だった。
一歳八か月。
歩く。
走ろうとする。
転ぶ。
そして相変わらず、アイヌ犬の藤吉郎に乗りたがる。
「わんわん」
雲丸は藤吉郎を見つけると近づき、当然のように背へしがみついた。
以前なら藤吉郎もそのまま歩いていた。
だが一歳八か月ともなれば、雲丸もずいぶん重い。
藤吉郎は立ち上がった。
一歩。
二歩。
そこで止まった。
「……」
犬が少弐を見る。
少弐には、
――もう無理です。
と言っているように見えた。
「雲丸。藤吉郎が困っておるぞ」
「わんわん」
「それは分かっている」
雲丸は降りない。
藤吉郎も振り落とすことはせず、困ったように立っている。
そこへライラが来た。
「雲丸。もう藤吉郎も重いって」
「まんま」
雲丸がすぐ反応した。
「まんま、まんま、まー」
藤吉郎から降り、今度はライラへまとわりつく。
「はいはい」
ライラは笑って抱き上げた。
少弐はその様子を見ていた。
「ずいぶん喋るようになったな」
「ああ。少しずつだけどな」
ライラが少弐を指さす。
「ほら。あれは?」
雲丸も少弐を見る。
指をさした。
「パパ」
少弐が固まった。
「……いま何と言った?」
「パー」
「もう一度」
「パパ」
少弐は嬉しそうな顔になった。
ライラが笑う。
「ずっと教えていたんだ」
「そうなのか」
少弐が雲丸へ手を伸ばす。
「そうだぞ。パパだ」
「パー」
「うむ」
少弐は満足した。
そこへ別所四十郎がやってきた。
傅役となってから、雲丸と一緒にいる時間が非常に長い。
雲丸は四十郎を見る。
嬉しそうに指をさした。
「わんわん」
四十郎が止まった。
少弐も止まった。
ライラが顔を背けた。
「……若君」
四十郎が静かに言った。
「某は犬ではございません」
「わんわん」
「藤吉郎はこちらです」
四十郎が犬を指す。
雲丸は藤吉郎を見る。
「わんわん」
次に四十郎を見る。
「わんわん」
少弐が耐えきれず笑った。
「同じらしいぞ」
「笑い事ではございません」
ライラも肩を震わせている。
なぜ四十郎まで「わんわん」なのかは誰にも分からなかった。
いつも一緒にいるからなのか。
藤吉郎と四十郎がどちらも雲丸について歩くからなのか。
あるいは雲丸の中では、
自分についてきてくれるものは、みな『わんわん』
なのかもしれない。
「わんわん」
雲丸が四十郎へ手を伸ばす。
結局、四十郎は抱き上げた。
「……いずれ訂正していただきます」
少弐はまた笑った。
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その日の夕方。
少弐とライラは、眠っている二人目の息子を見ていた。
「名前を考えた」
少弐が言った。
「聞こう」
「鐘丸」
ライラが赤子を見る。
「鐘?」
「ああ」
少弐はアユタヤで見たものを話した。
大都の寺。
高い仏塔。
金色の仏像。
広い境内。
そして――大きな鐘。
「立派だった」
少弐は目を細めた。
「鐘の音が、広い寺の中をずっと響いていた」
アユタヤでは多くのものを見た。
美しいものもあった。
悲しいものもあった。
スリフォンの父の墓も見つけた。
生きている父にも会った。
それでも少弐の記憶には、あの大きな鐘の音が残っていた。
「遠くまで届く音だった」
少弐は息子を見る。
「この子も、そうなればよい」
ライラはしばらく考えた。
「鐘丸」
もう一度呼んだ。
赤子は困り眉のまま眠っている。
「いいな」
ライラは頷いた。
「鐘丸にしよう」
そして異国名も決めた。
ライラの故郷にもつながる名。
サラーフ――サラディンの名を雲丸に与えたのと同じように、今度はその弟の名を取った。
アル=アーディル。
サラディンを支え、のちに自らも国を治めた弟の名である。
「雲丸がサラーフ」
ライラが言う。
「この子がアーディル」
「ああ」
少弐は二人の息子を見る。
兄は雲丸――サラーフ。
弟は鐘丸――アーディル。
そのとき廊下から、
「わんわん!」
という雲丸の声が聞こえた。
続いて四十郎の声。
「若君、某は四十郎です」
「わんわん!」
「違います」
藤吉郎まで吠えた。
ライラが笑った。
少弐も笑う。
鐘丸が少しだけ眉を動かした。
生まれたばかりだというのに、
兄は何をしているのだろう。
とでも言いたげな困り眉だった。
少弐は小さな息子の頭を撫でた。
「鐘丸」
静かに呼ぶ。
「アーディル」
アユタヤから持ち帰った鐘の記憶と、遠いイスラーム世界の兄弟の名。
その二つが、少弐とライラの二人目の息子の名になった。




