表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
954/1023

間に合わなかった帰還

兵庫津へ船が着くと、少弐は荷解きもそこそこに人へ任せた。


南方から持ち帰った香も、ボロブドゥールやアユタヤで書きためた記録も、今はどうでもよかった。


「有馬へ行く」


それだけ告げると、急いで六甲へ向かった。


六月の頭には帰る。


そうライラに約束して南方へ出た。


約束そのものは守った。


だから少弐としては、まだ間に合ったつもりだった。


有馬へ着くまでは。


屋敷へ入るなり尋ねる。


「ライラは」


返ってきた答えを聞いて、少弐は止まった。


「……生まれた?」


もう生まれていた。


慌てて奥へ向かう。


そこには思っていたよりずっと元気そうなライラがいた。


そして、その傍らには小さな赤子が寝ている。


「ライラ」


「ああ。おかえり、あなた」


ライラは少弐の顔を見ると、穏やかに笑った。


そして赤子を見て、


「生まれたよ」


と、ずいぶんすっきりした調子で言った。


「……見れば分かる」


少弐は肩で息をしていた。


「いつだ」


「少し前」


「少し前とは」


「あなたが帰ってくるより、少し早かった」


少弐はもっと何か言われると思っていた。


遅い、と。


子が生まれるというのに、どこまで行っていたのだ、と。


ボロブドゥールを見たあと、さらにシャムまで行った男である。


一言くらい責められて当然だと思っていた。


だがライラは何も言わなかった。


「二人目だからかな。雲丸のときより早かった」


そう言って、自分の腹を軽く撫でる。


「今回はずいぶん大きかったから、少し身体を動かしていたんだ。じっとしているほうがつらくてね」


「それで?」


「動いていたら、始まった」


あまりにもあっさり言うので、少弐のほうが青い顔になった。


「そんな簡単なことのように言うな」


ライラが少し笑う。


「簡単ではなかったよ」


それから、安心させるように少弐の手へ自分の手を重ねた。


「でも大丈夫だった。ちゃんと人もいた。私も、この子も元気だ」


少弐はようやく息を吐いた。


ライラはそんな夫の顔をしばらく見ていた。


「それに」


「うん?」


「あなたは帰ってきた」


少弐が顔を上げる。


「……六月には帰ると言ったからな」


「ああ」


それだけだった。


ライラは少弐がどんな男か知っている。


旅に出れば何かを見つける。


何かを見つければ確かめに行く。


ボロブドゥールまで行ったと思えば、次はシャムの寺を見たいと言い出す。


だから本当は少しだけ思っていた。


六月と言っても、七月になるかもしれない。


もっと遅くなるかもしれない。


けれど帰ってきた。


出産そのものには間に合わなかった。


それでも約束した六月の初めに、ちゃんと有馬まで帰ってきた。


ライラはそのことを責めるどころか、嬉しく思っていた。


「約束を守ったな」


「ああ」


「なら、それでいい」


ライラは少弐の手を軽く握った。


「おかえり、あなた」


「……ただいま」


ようやく少弐も笑った。


「ほら」


ライラが赤子を見る。


「抱いてやって」


少弐は恐る恐る手を伸ばした。


二人目とはいえ、赤子を抱くときの慎重さはあまり変わらない。


抱き上げてみて、最初に出た言葉が、


「……大きくないか?」


だった。


「大きいよ」


ライラは少し誇らしそうだった。


二人目も男児だった。


雲丸が生まれたときより、ずいぶんしっかりして見える。


少弐は腕の中の息子を眺める。


そして、妙な顔になった。


「……」


ライラは少弐と赤子を交互に見る。


「似ているな」


「誰に」


「あなたに」


少弐はもう一度息子を見る。


雲丸とは違った。


雲丸はライラに抱かれていると、なるほど母子だと思えるところが多かった。


しかし二人目は、どうにも少弐に似ている。


とりわけ眉だった。


少し下がっている。


困ったような眉。


身体は大きく元気なのに、顔だけを見ると、生まれたばかりですでに何かを心配しているようだった。


少弐はしばらく眺め、


「……少し頼りない顔をしておるな」


と言った。


ライラは赤子を見る。


それから少弐を見る。


「あなたも、よくそんな顔をしている」


「俺が?」


「ああ」


「いつ」


「考え事をしているとき」


少弐は納得していない。


ライラは笑いながら赤子の頬へそっと触れた。


「でも、いい顔だ」


その声だけは、先ほどまでとは少し違った。


柔らかかった。


「よく来たな」


ライラの指に、赤子の小さな手が触れる。


母の指を握ろうとするように動いた。


ライラはその手を包んだ。


「大きくなれ」


少弐は何も言わず、その様子を見ていた。


そこへ雲丸もやってきた。


父が帰ってきたことには気づいている。


しかし今は、それ以上に父の腕の中にいる小さな生き物が気になるらしい。


近づいてきて、じっと弟を見る。


「雲丸」


ライラが呼ぶ。


「弟だよ」


雲丸は赤子を見る。


少弐を見る。


もう一度赤子を見る。


「ん」


指を伸ばした。


少弐が慌てて赤子を少し引く。


「待て待て。目はだめだぞ」


ライラが吹き出した。


「雲丸、優しくな」


母に言われると、雲丸は少し考えた。


今度は赤子の布を、そっと触った。


「そう。それでいい」


ライラは雲丸の頭を撫でた。


その姿を見ながら、少弐はようやく実感した。


帰ってきたのだ。


ボロブドゥールでもない。


マラッカでもない。


アユタヤでもない。


ここが自分の帰るところだった。


腕には二人目の息子。


傍らには雲丸。


そしてライラがいる。


「間に合わなかったな」


少弐がぽつりと言った。


ライラは少弐を見る。


「六月に帰ると言った」


「ああ」


「六月に帰ってきた」


少しだけ身体を寄せる。


「十分だよ」


少弐は頷いた。


それから腕の中の息子を見る。


大きな男の子だった。


元気そうなのに、困ったような眉だけが妙に父親に似ている。


「さて」


少弐が言った。


「また名前を考えねばならんな」


ライラも赤子を見る。


「ああ」


そして静かに笑った。


「この子に似合うものを、二人で考えよう」


二人目の息子はそんな両親の話など知らず、少弐によく似た困り眉のまま、安心したように眠っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ