帰る港、帰らぬ男
アユタヤを離れた船は、北東へ進路を取った。
スリフォンは甲板からシャムの陸地を眺めていた。
白蓮寺を出てから、一度も父の話をしなかった。
少弐も聞かなかった。
やがて陸影が水平線へ沈む。
スリフォンはそれを最後まで見届けると、船室へ戻った。
それだけだった。
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帰路、一行は台湾南部へ寄った。
ここにも鹿島衆がいた。
マラッカほどの人数ではない。
港に常駐している者と、交易のために出入りしている者を合わせてもわずかなものだった。
それでも少弐たちの船が入ったと知ると、
「少弐殿ではないですか」
と数人が駆けつけてきた。
水。
薪。
米。
干した魚。
航海に必要なものを、少ない人数でかき集めてくれた。
少弐は笑った。
「おぬしら、どこにでもいるな」
鹿島衆の一人も笑う。
「我らも最近そう思います」
補給の間、スリフォンは紙と筆を借りた。
一人で長いこと書いていた。
少弐が何を書いているのか尋ねると、
「兵学館へ」
と答えた。
「退職の願いです」
少弐は少し驚いた。
「帰ってから直接言わぬのか」
「もちろん挨拶には参ります。しかし先に書面を出しておくのが筋でしょう」
いかにもスリフォンだった。
兵学館でのスリフォンは、決して愛想のよい教師ではなかった。
訓練は厳しい。
課題にも容赦がない。
間違った答えを曖昧に褒めることもしない。
だが、なぜ間違ったのかは最後まで教えた。
できない者を見捨てることもなかった。
だから妙に人気があった。
生徒から恐れられながら、同時に慕われていた。
スリフォンはその者たちへ宛てるように、何度も筆を止めながら退職の理由を書いた。
そして最後に署名する。
紙を畳んだ。
「神戸に着いたら、鹿島衆に託します」
「自分で持っていけばよかろう」
「持っていたら、気が変わるかもしれません」
少弐はスリフォンを見る。
冗談なのかと思った。
しかしスリフォンは少し笑っただけだった。
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兵学館に残されているスリフォンの私物は、驚くほど少なかった。
衣類。
数冊の本。
筆記具。
武具。
それだけ。
教師として長く暮らしていた男の部屋とは思えない。
生徒から贈られた小物はいくつか大切にしまってあったが、自分で買い集めたものはほとんどなかった。
いつでも荷物をまとめられた。
いつでも出ていけた。
そこに暮らしてはいた。
生徒を教え、田を耕し、人と笑いもした。
けれど――
どこかに心だけを置かなかった。
七年前、父から、
行け。
と言われた日から、スリフォンはずっと旅の途中だったのかもしれなかった。
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台湾を出る。
琉球の海を越える。
九州を遠くに見ながら瀬戸内へ入った。
季節は進んでいた。
少弐が日本を出たころとは風の匂いまで違う。
六月初め。
ようやく見慣れた海が現れた。
「見えます」
船員が言った。
少弐が甲板へ出る。
六甲の山。
その麓に広がる兵庫津。
港には船が並び、倉が増え、海沿いには少弐が出発したころにはなかった建物まで見える。
「……また増えておらぬか」
少弐が呟いた。
イネスが笑った。
数か月留守にしただけなのに、兵庫津はまた姿を変えていた。
少弐は満足そうに山を見る。
ボロブドゥールを見た。
石の仏たちの前で何日も過ごした。
マラッカを見た。
アユタヤへ行った。
大都を歩いた。
白蓮寺にも泊まった。
目的だった南方の寺院は、もう十分すぎるほど見た。
「いやあ、見たな」
少弐は嬉しそうだった。
「たっぷり見た」
その隣にスリフォンが立った。
彼は兵庫津を見ている。
少弐にとっては帰ってきた港だった。
だがスリフォンにとっては違う。
日本へ戻ってきた。
しかし兵学館へ戻るつもりはない。
シャムへも戻らない。
父からは、
もう来るな。
と言われた。
だから、これから自分が立つ場所は自分で決めなければならない。
少弐が横を見る。
「スリフォン殿」
「はい」
「神戸だ」
「はい」
「来ると言ったな」
スリフォンは兵庫津を見たまま答えた。
「参ります」
もう迷いはなかった。
船が港へ近づいていく。
鹿島衆の旗が見えた。
岸では船の到着に気づいた者たちが集まり始めている。
スリフォンは懐へ手を入れた。
兵学館への退職の書状が入っていた。
一つの仕事を辞めるための手紙。
そして同時に、七年間続いていた亡命生活を終わらせる手紙でもあった。
少弐は六甲の山を見上げた。
「さて」
帰ってきた。
1575年、六月初め。
少弐冬明は、ボロブドゥールとアユタヤをたっぷり見物し、一人の男を連れて兵庫津へ帰還した。
このとき兵庫津の者たちは、まだ知らない。
少弐が南方から連れ帰った物の中で、もっとも価値のあるものは香木でも、香辛料でも、寺院の記録でもなかった。
それは、甲板で静かに港を見つめている――
スリフォンという一人の指揮官だった。




