スリフォン、しっかりやれ
白蓮寺を発つ前日、少弐は老僧を訪ねた。
スリフォンは連れていかなかった。
二人だけで話したいと頼み、寺の小さな一室を借りた。
少弐はまず、これまで世話になった礼を述べた。
それから切り出した。
「和尚。一つ相談があります」
老僧が頷く。
「日ノ本にも、アユタヤから来た者がおります」
商人もいる。
船乗りもいる。
戦や政変で故郷を離れた者もいる。
数は多くないが、兵庫津のような港へ行けば、ポルトガル人も、朝鮮人も、明の者も、琉球人もいる。
「そこで俺は、兵庫津にシャム式――いや、アユタヤの寺を建ててみたい」
老僧が少し驚いた。
少弐は続ける。
「建物だけ真似ても仕方がない。仏の祀り方も、経も、作法も知らぬ。だから白蓮寺から誰か一人でもよい。日ノ本へ来てもよいという僧か、寺に仕える者を送ってほしい」
もちろん無理強いはしない。
旅費はこちらで持つ。
住む場所も用意する。
兵庫津でアユタヤから来た者たちが祈る場所としてもよいし、日本の僧と交流してもよい。
そして少弐はもう一つ付け加えた。
「もしよろしければ、代わりにこちらへ一人残します」
老僧が首を傾げる。
「我らの者を案内人として置く。日ノ本から来る者との連絡にも使っていただいてよい」
老僧はすぐには答えなかった。
かなり長く考えた。
やがて、
「……考えてみましょう」
と答えた。
即答ではない。
だが拒絶でもなかった。
少弐にはそれで十分だった。
「ありがたい」
少弐は深く頭を下げた。
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その日の夕方。
スリフォンが少弐のところへ来た。
数日前とは顔が違っていた。
泣いた痕はもうない。
「少弐殿」
「うむ」
「私は、戻ってきました」
少弐は黙って聞いた。
「七年ぶりにシャムへ戻ってきた」
スリフォンは白蓮寺の境内を見る。
少年だったころ歩いた道。
文字を習った堂。
父の知人だった老僧。
すべてが残っている。
だが、
「戻るべきところは、ありませんでした」
少弐はしばらくスリフォンを見た。
それから言った。
「ならば、神戸へ来ぬか」
スリフォンが顔を上げた。
「兵庫津へ?」
「うむ」
「……」
スリフォンは考えた。
長かった。
やがて突然、
「父は、帰ってくるなと言ったのでしたな」
と言った。
「そう聞いた」
するとスリフォンは、ほんの少し笑った。
「父はいつも、そうでした」
少弐が首を傾げる。
「私が何かをしに出るとき、父は言いました」
スリフォンは懐かしむように目を細めた。
「行け。戻ってくるな」
そして必ず、そのあとに続いた。
『スリフォン。しっかりやれ』
「子供のころは嫌いでした」
スリフォンは笑う。
「帰ってくるななどと言う父親がどこにいるのかと思っていました」
だが父はいつも待っていた。
剣の稽古へ送り出したときも。
寺へ学びに出したときも。
初めて一人で遠くへ使いに出たときも。
帰ってくるな。
しっかりやれ。
それが父の送り出し方だった。
「だから今回も同じなのでしょう」
スリフォンは白蓮寺の外を見る。
「戻ってくるな」
少し間を置いた。
「ならば、戻りません」
少弐は何も言わない。
「少弐殿」
「なんだ」
「私は日ノ本で田を耕しました」
「そうだったな」
「兵学館でも教えました」
「評判は悪くなかったぞ」
「でしょうな」
スリフォンは少し笑った。
「しかし、あれは私の本当の姿ではありません」
少弐は眉を上げた。
「では、本当の姿とはなんだ」
スリフォンは少弐を見る。
「少弐殿。私の名の意味を、ご存じですか」
「いや」
スリフォンは自分の胸を指した。
「スリフォン――栄えある者、誉れある者。そういう願いを込めた名です」
父が付けた名だった。
ただ生き延びろという名ではない。
ただ安全な場所で暮らせという名でもない。
己の働きによって、名に恥じぬ者になれ。
スリフォンはそう教えられて育った。
「兵庫津へ行くのはよい」
少弐を見る目が変わった。
もう迷っていなかった。
「行きます」
そして静かに続ける。
「ただし、行くならば――」
スリフォンは腰に差していた刀へ手を置いた。
「地獄にいる父に会うまでの、力試しです」
少弐は黙って聞いている。
「いつか私も死ぬ。そのとき父に会う」
スリフォンは笑った。
「そこで、何をしてきたと聞かれるでしょう」
田を耕しました。
異国で静かに暮らしました。
それでも父は笑ってくれるかもしれない。
だが、自分自身が納得できない。
「父が最後まで言ってくれたはずの言葉があります」
スリフォンはゆっくり息を吸った。
「スリフォン。しっかりやれ」
風が白蓮寺を抜けた。
「ならば、しっかりやります」
少弐はスリフォンを見る。
「何が欲しい」
答えはすぐ返ってきた。
「武を振るう場所を」
「戦いたいのか」
「違います」
スリフォンは首を横に振った。
「任されたいのです」
守るべき場所。
率いるべき者。
己の判断で動き、その結果を己の名で引き受ける仕事。
「父に会ったとき、恥じぬ働きをしたと言える場所がほしい」
そしてスリフォンは少弐へ向き直った。
「少弐殿」
深く頭を下げた。
「任せてもらえるか?」
少弐はしばらく答えなかった。
七年前。
父に逃がされた若者がいた。
南へ逃げた。
海を渡った。
日ノ本まで来た。
田を耕し、人にものを教え、ようやく故郷へ戻った。
そして父の墓を見つけた。
父らしき老人から、
戻ってくるな、
と言われた。
それでも、もう俯いてはいなかった。
少弐は立ち上がった。
「分かった」
スリフォンも顔を上げる。
「兵庫津へ来い」
「はい」
「仕事は俺が探す」
スリフォンは首を横に振った。
「仕事を探すのではありません」
少弐が笑った。
「そうだったな」
ならば――
「おぬしに任せる場所を作ろう」
スリフォンは深く一礼した。
「お願いいたします」
白蓮寺の池では、白い蓮が揺れていた。
スリフォンはもう振り返らなかった。
帰る場所を失ったのではない。
父からもう一度、
行け。
そう送り出されたのだ。
今度こそ、少年ではない。
武人として。
スリフォンは大都に背を向けた。
その顔には、もう迷いはなかった。




