墓の主
翌朝、少弐のもとへ一人の老人が来た。
昨日、寺の僧から、
「その人物を知る者が一人いる」
と教えられていた老人だった。
かなりの歳に見えた。
僧衣ではない。しかし寺の中を歩く姿には妙な馴染み方があり、僧たちも彼を止めない。
名を尋ねても、老人は短い名しか名乗らなかった。
案内人が、
「昔から寺の世話をしている方だそうです」
と説明した。
少弐は深く追及しなかった。
「では、寺を見せてもらえますか」
老人は頷いた。
そこから老人は、昨日の案内人よりはるかに詳しく大都の寺について説明してくれた。
どの堂が戦以前から残るのか。
どこが焼けたのか。
どの仏像が運び出され、どれが失われたのか。
戦の前にはどのような者たちが寺へ寄進していたのか。
王族が訪れる際にはどこを通ったのか。
少弐は夢中になった。
帳面を開いて老人の言葉を書き留める。
だが、聞けば聞くほど妙だった。
この老人は寺に詳しいだけではない。
戦以前の大都を知っている。
しかも寺社だけではない。
「この水路は昔から?」
「昔はもう少し狭かった」
「この道の向こうは?」
「役人たちの屋敷があった」
「よくご存じですな」
そう言うと、老人は、
「長く生きたからな」
とだけ答えた。
昼近くになり、少弐は昨日見つけた墓のある場所へ来た。
老人の足が、一瞬止まった。
少弐は気づかなかった。
「そうだ」
少弐は懐から香を出した。
「一つ頼みがあります」
老人は黙っている。
少弐は例の墓を指した。
「昨日、この墓を見つけました」
老人の表情は変わらない。
「俺は、この墓の主を探して大都まで来たのです」
老人が少弐を見る。
「探していた?」
「ええ」
少弐は墓標を見る。
「ところが、生きた本人より先に墓を見つけてしまった」
老人は何も言わなかった。
少弐は香を墓前へ置いた。
「あなたはこの者をご存じだと聞いた」
「……知っている」
「ならば、一緒に拝んでいただけませんか」
老人の目が少弐へ向いた。
先ほどまで寺の由来を語っていた老人とは違う目だった。
「なぜだ」
「なぜ?」
「なぜ異国人のお前が、この男の墓を拝む」
少弐は答えなかった。
老人がもう一度尋ねる。
「この一族を知る者か?」
少弐は老人を見た。
だが、答えない。
沈黙が続いた。
老人の顔から、穏やかさが消えた。
「……そうか」
老人は墓へ近づかなかった。
代わりに少弐へ言った。
「ならば伝えろ」
「誰に?」
「この一族の者にだ」
少弐の目がわずかに細くなる。
老人は墓を見た。
「もう、ここへ来るな」
少弐は黙って聞いている。
「大都にも近づくな。この墓を探すな。この男について尋ねるな」
老人の声は低かった。
怒鳴ってはいない。
それなのに、拒絶する力があった。
そして老人は続けた。
「もし一族の者を知っているなら、その者にも伝えろ」
少弐は初めて口を開いた。
「なんと?」
老人は少弐を見る。
「父がそう言っている、と」
少弐は動かなかった。
風が吹いた。
墓前に置いた香の煙が横へ流れた。
案内人は意味が分からないようだった。
だが少弐には分かった。
「……父?」
老人は何も答えなかった。
少弐は墓を見る。
刻まれている名前を見る。
それから老人を見る。
昨日から引っかかっていたことが、一つにつながった。
この老人は、墓の主を知っているのではない。
墓の主そのものなのだ。
少弐はゆっくり墓標へ近づいた。
「これは、あなたの墓ですか」
老人の顔が険しくなった。
「帰れ」
「死んだことになっている」
「帰れ」
「だから誰も居場所を言わなかった」
老人は答えない。
少弐はようやく理解した。
スリフォンの父親は見つからなかったのではない。
見つかってはいけない人間になっていた。
名前を捨てた。
家を捨てた。
墓まで作った。
そして大都の大寺院の片隅で、別人として生きている。
少弐は老人を見つめた。
「息子が生きているか、知りたくはありませんか」
老人の顔が初めて揺れた。
ほんの一瞬だった。
だが少弐は見た。
老人は目を伏せた。
「聞かぬ」
「そうですか」
「聞かぬ」
老人は背を向けた。
数歩歩いてから止まる。
振り返らないまま言った。
「一族の者に会ったなら――」
声が少しだけ掠れた。
「父は死んだと伝えろ」
少弐は墓を見る。
「墓もある、と?」
長い沈黙のあと、
「……そうだ」
と返ってきた。
老人は去っていった。
少弐は追わなかった。
名も聞かなかった。
宿へ戻る道で、案内人が尋ねた。
「あの老人は、いったい誰だったのでしょう」
少弐は答えなかった。
ただ一度だけ振り返った。
大都最大の寺。
その境内には、一人の男の墓がある。
そしてその墓のすぐ近くを、死んだはずの男が歩いている。
少弐は懐の帳面を取り出した。
だが何も書かなかった。
これは旅の記録に残してよい話ではない。
帳面を閉じる。
そして呟いた。
「……さて」
寺で待っているスリフォンに、
父が死んでいた
と伝えるべきなのか。
それとも、
父は生きていた。そして、お前に来るなと言った
と伝えるべきなのか。
少弐にとっては、父親を見つけるよりも難しい仕事が残っていた。




