古き都の名
アユタヤへ近づくほど、スリフォンは口数が少なくなった。
マラッカでは海賊の話にも笑っていた男が、チャオプラヤーの水を遡りはじめてからは、船縁に立って岸を見ていることが多い。
少弐はそれを問いたださなかった。
ただ一度、
「スリフォン殿。シャムには寺が多いと聞く。せっかくここまで来たのだ。見て回りたい。案内してくれぬか」
と頼んだ。
スリフォンは少し考え、
「……昔の伝手が、まだ残っていれば」
と答えた。
「寺社ならば、いくつか案内いたしましょう」
そうして彼は、商人が外国人を連れていくような大寺だけではなく、川沿いの古い寺、王都の外れの小さな僧院、戦火の痕をまだ残す寺へ少弐を連れていった。
ボロブドゥールとはまるで違った。
高くそびえる仏塔。金色の仏像。壁に描かれた仏伝。香の煙。
少弐は僧に許しを得るたび、イネスに建物や仏像を描かせ、自分は由来を書き留めた。
「この仏は、誰が建てた」
「この塔は何年前のものだ」
「王が替われば寺も替わるのか」
相変わらず質問ばかりである。
スリフォンは通訳しながら、時折困ったように笑った。
だが三つ目に訪れた古寺で、その空気が変わった。
門をくぐったところで、老僧がこちらを見た。
最初は少弐たち異国人を見ていた。
ところが、その目がスリフォンに止まった。
老人は動かなかった。
やがて杖をつきながら、一歩、二歩と近づいてくる。
スリフォンが顔を伏せた。
老僧が何かを言った。
少弐には分からなかった。
だが、スリフォンの肩がわずかに震えた。
「……なんと?」
少弐が聞く。
スリフォンは答えない。
老僧はもう一度言った。
今度は長かった。
そして最後に、スリフォンの名とは違う名を呼んだ。
周囲にいた若い僧たちまで顔を上げた。
スリフォンはとうとう諦めたように息を吐いた。
「少弐殿」
「うむ」
「どうやら……昔の伝手が、残りすぎていたようです」
少弐は黙って彼を見る。
老僧はスリフォンの手を取った。
その仕草は、旅の案内人に対するものではなかった。
長く帰らなかった子を見るような手だった。
その日の夕刻、少弐たちは寺の一室を借りた。
スリフォンはしばらく黙っていた。
少弐も急かさず、鹿島衆から持たされた香を少量焚いた。
やがてスリフォンが言った。
「私は、商人の家の生まれではありません」
「そうであろうな」
スリフォンが顔を上げた。
「お気づきでしたか」
「寺に入るたび作法を誰にも聞かぬ。僧の位も分かる。役人を見ても驚かぬ。なによりアユタヤへ近づいてから、帰ってきた者の顔をしておった」
少弐は煙を眺める。
「だが、言いたくなるまで聞かぬつもりだった」
スリフォンは苦笑した。
それから、ようやく話した。
彼の父は、かつてアユタヤ王朝に仕えた官人であった。
大貴族というほどではない。
だが王都の寺院への寄進や、外国商人との取次、地方から運ばれる品の管理などに関わる家であった。
幼いスリフォンも寺で文字を習い、僧からパーリ語の経文を教わり、外国商人が来ればその言葉を聞いて育った。
だからマレー人とも話せた。
ポルトガル人の言葉も覚えた。
海の向こうの国々にも興味を持った。
それだけなら、彼が日本まで流れ着くことはなかった。
「七年前です」
スリフォンが言った。
「アユタヤが落ちました」
少弐の目が細くなる。
1569年。
ビルマのバインナウン王によるアユタヤ陥落である。
町は長い戦いに疲れ、王家は揺れ、多くの者が捕らえられ、ある者はビルマへ連れて行かれた。
そして新たな王が立てられた。
「父は、以前の王家に近すぎました」
スリフォンは静かに言った。
「戦が終われば終わりだと思っていた。違いました。戦が終わったあとから、誰がどちらについたかを皆が思い出すのです」
父の知人が消えた。
親類が捕らえられた。
昨日まで味方だった者が、新しい秩序のなかで生き残るため、古い友の名を差し出した。
スリフォンの家にも手が伸びた。
父は息子だけを逃がした。
「南へ行け、と」
「……それでマラッカか」
「最初はパタニでした。それからマレー半島を転々としました」
港から港へ。
寺から商館へ。
商人の通訳をし、船乗りの荷を数え、時にはポルトガル人のために働いた。
故郷へ戻ろうと思ったこともある。
だが戻れば父の敵がいる。
父が生きているかさえ分からない。
やがて海を渡るほど、帰る理由より帰れない理由のほうが増えていった。
そして最後には、日本まで来た。
「日本なら、シャムの政争など誰も知りません」
スリフォンは笑った。
寂しい笑いだった。
「誰の息子だったかも、誰に仕えていた家かも関係ない。ただスリフォンという、少し言葉のできる異国人でいられた」
少弐はしばらく何も言わなかった。
外では夕暮れの鐘が鳴っていた。
「それで日本に来たのか」
「はい」
「遠すぎると思っておった」
「私もそう思います」
二人は少しだけ笑った。
やがて少弐が尋ねた。
「では、あの和尚は?」
スリフォンは寺の奥を見る。
「父の友人です。子供のころ、私に文字を教えてくれました」
「父上のことは」
スリフォンは答えるまでに時間がかかった。
「……生きているそうです」
少弐は何も言わなかった。
「王都にはおりません。出家したとも、地方の寺に身を寄せているとも聞きました。和尚も詳しい場所は言いませんでした」
「なぜだ」
「私が本当に私なのか、まだ確かめているのでしょう」
少弐はそこで初めて笑った。
「よい和尚ではないか」
「はい」
スリフォンも、ほんの少し笑った。
少弐は立ち上がった。
「では明日も寺を見よう」
スリフォンが意外そうに見る。
「それだけですか」
「それだけとは?」
「私の出自を聞いて……」
「おぬしが王子であったなら少し驚いた」
「違います」
「ならば案内人が元官人の倅になっただけだ。むしろ寺に詳しい理由が分かって都合がよい」
スリフォンは呆れて少弐を見る。
少弐は戸口まで行ってから振り返った。
「ただし予定は変える」
「どのように?」
「寺を見ながら、父上を探す」
スリフォンの顔から笑みが消えた。
「少弐殿。それは私事です」
「そうだな」
「あなたの旅とは関係がありません」
「そうだな」
「では――」
「俺はボロブドゥールで何日も仏の顔を眺めておった男だぞ。シャムで数日、人を探すくらい今さらであろう」
スリフォンは言葉を失った。
少弐はそのまま部屋を出た。
しばらくして背後から、
「……本当に、変わったお方だ」
という小さな声が聞こえた。
翌朝。
スリフォンは昨日までとは違い、自分から道を選んだ。
観光客を案内する道ではなかった。
かつて自分が少年として歩いた道だった。
そして少弐たちのシャム見聞は、いつの間にか寺社巡りから、一人の亡命者が七年ぶりに故郷をたどる旅へと変わっていった。




