父になって初めての海
クリスマスを終えた翌朝。
まだ冬の薄暗さが残る兵庫津で、ポラールは静かに出帆の支度を終えていた。
今回、マリアはいない。
南方への先遣と調査に人を割いていることもあり、ポラールの指揮は長くマリアの下で航海を経験してきた代理船長に任された。少弐冬明にとっても、船の指揮そのものを執る旅ではない。
目的は南方であった。
今井宗及から聞いた、南海に残るという古い仏法の痕跡。
それがどこにあり、どのようなものなのか。
かなり前から先遣の者を南へ送り、ブルネイやマラッカの拠点にも調査を頼んでいる。今度はその報告を拾いながら、自ら確かめに行く。
荷も少ない。
交易そのものが目的ではないため、大量の商品を積んではいなかった。贈答品と交換品、航海に必要な食糧や薬、それに記録や測量の道具が中心である。
だからポラールは軽かった。
「出します」
代理船長の声に、少弐は頷いた。
綱が解かれる。
帆が張られ、冬の風を受けた船体がゆっくりと岸を離れた。
少弐は甲板から兵庫津を見ていた。
以前なら、何とも思わなかった。
岸が小さくなる。
六甲の山が遠ざかる。
それだけのことだった。
北へ行ったときも、朝鮮へ渡ったときも、海の向こうに何があるのかという方が気になった。
だが今回は違った。
少弐は無意識に懐へ手を入れた。
そこには雲丸へ折ってやったものとは別の、小さな紙片が入っていた。
昨日の朝。
出て行く少弐から折紙の兜を受け取った雲丸は、不思議なことにそれを壊さなかった。
いつもなら握りつぶすか、口へ持っていくかするのに、あの兜だけは小さな手に持って、じっと眺めていた。
そしてライラ。
夜のうちに黙って出てしまおうかと一度は考えた。
結局できなかった。
朝になって、ちゃんと顔を見て別れた。
「……困ったものだ」
少弐が呟いた。
近くにいた者が振り返った。
「何か?」
「いや」
少弐は首を振った。
再び陸を見る。
もう人の姿など判別できない。
それでも、あの辺りに清盛館があり、その向こうに有馬があり、そこにライラと雲丸がいると思ってしまう。
以前の旅なら、
――さて、次は何がある。
それだけだった。
今回は、
――無事に帰らねばならぬ。
そう思った。
自分でも妙な感覚だった。
少弐冬明は、初めて父親として海へ出たのである。
やがて兵庫の陸影が霞み始めた。
少弐はようやく船首へ身体を向けた。
「まず琉球だな」
「はい。風が崩れなければ順調に参れます」
「急ぐ必要はない。ただし、無駄には泊まるな。今回は商売の旅ではないからな」
代理船長が笑った。
「少弐様からその言葉を聞けるとは思いませんでした」
「私を何だと思っている」
「寄港するたび荷物が増える御方です」
周囲から笑いが漏れた。
少弐も否定できなかった。
「……今回は増やさん」
誰も返事をしなかった。
それが余計に腹立たしい。
こうしてポラールは南西へ走った。
九州方面を経て、南へ。
今回は既知の航路である。
北方探訪のころのように、一つ一つの海岸を測りながら進む必要はない。南方から坂東へ来た者たち、ブルネイ、ルソン、マラッカなどとの往来によって、以前とは比較にならないほど航路の情報が蓄積されていた。
そして最初のまとまった補給地が琉球だった。
数日後。
海の色が変わり、島影が見えてくる。
「琉球です」
声が上がった。
少弐は甲板へ出た。
ここまで来ると、不思議なことに兵庫津を出た直後ほど胸は重くなかった。
旅人の顔に戻り始めている。
琉球にはすでに小田の船が何度も出入りしている。
水を求める場所も、食糧を買う相手も、話を通すべき相手も分かっている。
港へ入れば、補給はすぐ始まった。
水樽。
米。
干魚。
塩。
果物。
南へ向かうため傷みやすいものも改めて積み直す。
船員たちは帆索を点検し、船底や舵の状態を確認した。
少弐はその様子を眺めながら、以前この島へ来たころを思い出した。
あのころは、ここも「知らない南方」だった。
いまでは違う。
ここからさらに南にルソンがあり、ブルネイがある。
もっと西へ行けばマラッカがある。
そこには小田の者がいる。
そして、そのさらに先に今回探しているものがある。
先遣の報告では、どうやら爪哇の内陸が怪しい。
山中に、途方もなく大きな石造物がある。
仏らしき像が無数にある。
しかし、今そこを大寺として使っている者はいないらしい。
話だけ聞けば聞くほど奇妙だった。
「山ほどもある仏寺、か」
少弐は港の向こうの海を眺めた。
琉球は今回、目的地ではない。
ここはもう、南へ向かうための最初の足場になっていた。
補給が終われば、長居する理由もない。
少弐は代理船長へ言った。
「明朝、出よう」
「次は?」
「南へ。まず既知の道を使う」
そして少し間を置いた。
「ブルネイまで行けば、先遣の報せも集まっているだろう」
翌朝。
ポラールは再び帆を張った。
琉球の島影が後ろへ流れていく。
少弐は今度は振り返らなかった。
目は南に向いていた。
けれど懐には、出航した朝からずっと、雲丸を思い出すための小さな紙片が入っていた。




