南海への朝――雲丸の兜
天正二年十二月二十六日、朝。
クリスマスは終わった。
少弐冬明がライラと交わした約束も、これで果たしたことになる。
今日、少弐は有馬を発つ。
神戸から船に乗り、先遣隊の後を追って南海へ――ジャワ、スマトラへ向かう。
昨夜、少弐は少し迷っていた。
皆が眠っている間に、静かに出てしまおうか、と。
雲丸の顔を見れば離れにくくなる。
ライラも二人目を身籠っている。
ならば眠っている二人を起こさず、書き置きを残して出てしまった方が楽ではないか。
そこまで考えて――やめた。
「それは怒られるな」
何より、自分自身が後悔すると思った。
だから朝まで待った。
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朝になると、庭ではもう雲丸が動いていた。
一歳二か月。
少し前までは数歩歩けば尻餅をついていたのに、藤吉郎が来てから妙に歩く力が伸びていた。
理由は簡単だった。
藤吉郎につかまって歩くのである。
「おお……」
少弐は思わず足を止めた。
藤吉郎がゆっくり歩いている。
その胴の毛を雲丸が両手で掴んでいる。
「ん……ん」
一歩。
もう一歩。
藤吉郎は雲丸の速さに合わせていた。
雲丸が遅れれば止まる。
立ち直れば、また歩く。
犬というより、動く手すりだった。
「藤吉郎、賢いなあ」
少弐が呼ぶと、藤吉郎はこちらを見る。
しかし雲丸がつかまっているので来ない。
「お前、もう自分の仕事分かってるだろ」
尻尾だけが振られた。
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ライラもそれを見ていた。
「温かくなったら、外を歩かせようと思う」
「外?」
「ずっと家の中じゃかわいそうでしょう」
春になれば、有馬の道を雲丸自身の足で歩かせる。
もちろん長明や藤吉郎をつける。
最初は家の周り。
それから少しずつ遠くへ。
「そのころには、もっと歩けるようになってるかな」
「藤吉郎がいれば歩くんじゃない?」
二人で見る。
雲丸が藤吉郎につかまったまま進んでいる。
しかし突然、藤吉郎が止まった。
雲丸も止まる。
雲丸が藤吉郎を見る。
「ん」
藤吉郎は動かない。
「ん!」
雲丸が催促する。
少弐が笑った。
「もう馬みたいに扱ってないか?」
「乗ろうともするものね」
「それは止めよう」
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出立の時刻が近づいた。
供の者たちも準備を終えている。
少弐は別所長明を呼んだ。
三木城のために半年以上走り回った四十郎。
今は別所長明という名を持ち、雲丸の傅役となった男である。
「長明」
「はっ」
「しばらく頼む」
長明は深く頭を下げた。
「雲丸様ならびに奥方様のこと、必ずや」
「そこまで堅くならなくていい」
少弐は笑った。
「雲丸が転ぶくらいはいい。子供だから転ぶ」
「は」
「でも危ないところには行かせないでくれ」
「承知しております」
少弐は少し考えて付け加えた。
「あと藤吉郎も頼む」
「犬まででございますか」
「雲丸の傅役補佐みたいになってるからな」
長明が藤吉郎を見る。
藤吉郎も長明を見る。
「……私の同役ということで?」
「お前の方が上役だ」
「安堵いたしました」
少弐は笑った。
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最後に雲丸のところへ行った。
「雲丸」
「ん」
少弐がしゃがむ。
まだ父親がこれから何か月もいなくなることなど理解できない。
何か渡せるものはないかと思った。
玩具ならすでにたくさんある。
今井からも、鷹司からも、明智からも届いている。
そこで少弐は紙を一枚取った。
雲丸の目が輝いた。
「これはくしゃくしゃにする紙じゃないぞ」
もちろん通じない。
少弐は紙を折り始めた。
一度。
もう一度。
形を整える。
最後に両側を開いた。
小さな紙の兜。
「ほら」
雲丸へ差し出した。
「父上からだ」
雲丸が両手で取った。
少弐はすぐ身構えた。
普段ならここからである。
握る。
潰す。
引っ張る。
破く。
だから今日の兜も数十秒の命だろうと思った。
ところが――
雲丸は壊さなかった。
「……あれ?」
手の中で返す。
見る。
また返す。
尖ったところを指で触る。
持ち上げる。
「気に入った?」
「ん」
少弐が笑った。
「珍しいな」
紙そのものが好きなのではなく、どうやら形になったものだと分かっているらしい。
ライラも少し驚いた。
「いつもなら、もう潰してるのに」
「俺の遣唐使目録とは扱いが違う」
雲丸は兜を両手で持ったまま眺めていた。
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少弐は雲丸の頭へ載せようとした。
当然、一歳児には少し大きさが合わない。
すぐ傾く。
雲丸はそれを取った。
少弐は笑った。
「被るより持っていたいのか」
雲丸はまた兜を見る。
少弐は、その姿を少し長く眺めた。
昨夜こっそり出なくてよかったと思った。
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「じゃあ、行ってくる」
ライラの前に立つ。
「六月」
「分かってる」
「忘れないで」
「忘れない」
今度の旅には明確な期限がある。
ジャワ。
スマトラ。
どれほど面白いものを見つけようと、どれほど調査したい場所が増えようと――
六月までには帰る。
二人目が生まれる。
少弐はライラの腹へそっと手を添えた。
「こっちにも、行ってくる」
ライラが笑った。
「まだ聞こえないでしょう」
「雲丸にもあんまり通じてない」
「それはそうね」
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そして少弐は、もう一度長明を見る。
「頼んだ」
「お任せください」
次に藤吉郎。
「藤吉郎」
犬がこちらを見る。
「二人を頼むぞ」
尻尾が振られた。
少弐は一瞬だけ、
――よりによって秀吉と同じ名前なんだよな。
と思った。
明智光秀に教えられて以来、どうしても頭をよぎる。
だが、この藤吉郎なら安心できた。
よく働く。
よく動く。
賢い。
辛抱強い。
何より雲丸が好きだった。
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少弐は立ち上がった。
今度こそ出る。
振り返る。
ライラ。
長明。
藤吉郎。
そして雲丸。
雲丸は少弐を追って泣くわけでもなかった。
まだ別れというものを理解していない。
ただ、小さな紙の兜を両手に持っている。
時々それを眺める。
また触る。
不思議そうに角を確かめる。
少弐は少し笑った。
「それ、帰るまで残ってるかな」
ライラが答えた。
「残しておくわ」
「いや」
少弐は首を振った。
「雲丸に任せよう」
壊したなら、それでもいい。
一歳の子供へ渡した玩具なのだから。
「じゃあな、雲丸」
「ん」
それが返事だったのかは分からない。
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少弐冬明は有馬を発った。
山を下れば兵庫津。
そこから船に乗る。
瀬戸内を抜け、さらに南へ。
マラッカを経て、ジャワとスマトラを目指す長い航海が始まる。
その背後。
有馬では、雲丸が藤吉郎の毛を掴んで、また歩き始めていた。
片手には父からもらった兜。
さすがに片手ではうまく藤吉郎につかまれない。
一歩。
ふらつく。
兜を見る。
それでも離さない。
藤吉郎が立ち止まって待つ。
ライラが後ろから見守る。
長明もいる。
やがて春になれば、この子は外を歩く。
そして六月になれば、弟か妹が生まれる。
そのころまでには――父も帰ってくる。
雲丸がなぜその紙の兜だけを壊さなかったのか、それは誰にも分からなかった。
ただ少弐が南海から帰ってくるまで、その小さな兜は、雲丸にとって父から初めてもらった「壊さない紙」になったのである。




