聖夜の藤吉郎――旅立ち前の有馬
天正二年十二月二十五日。
有馬では、少弐冬明が南方へ旅立つ前の最後の一日を過ごしていた。
ライラとの約束は、
「クリスマスが終わるまでは雲丸と一緒にいること」
だった。
この日を終えれば、少弐は船に乗る。
先遣隊が調べているジャワとスマトラへ向かい、南海に残るという古い寺院や仏教遺物を自分の目で確かめる旅が始まる。
だから今日は仕事も最小限にした。
もっとも一歳二か月になった雲丸にとって、父親が明日から長旅に出ることなど知る由もない。
最近の雲丸には、それより気になるものがあった。
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「ん」
雲丸が外を指さした。
「何だ?」
「ん」
もう一度指す。
少弐もその方向を見る。
空だった。
しばらくすると、その上を大きな鳥影が横切った。
「ハビービか」
雲丸が、
「ん!」
と声を上げる。
どうやら雲丸は動物が好きらしい。
特にハビービを見つけるとよく反応した。
少弐が北方の旅を始めたころから縁のある鷹で、今では少弐個人の鷹というより、六甲山方面を守る少弐虎衆が世話をしている。
時折有馬の上空近くまで姿を見せると、雲丸は見つける。
「あれが分かるのか」
「ん」
「鷹だぞ」
「ん」
まだ言葉にはならない。
だが、指だけは一生懸命だった。
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そしていつの間にか、
「少弐の若君は獣がお好きらしい」
という話が広がった。
商人は商人らしい贈り物をした。
今井宗及からは、職人に作らせた小さな動物の玩具が届いた。
鷹司家からも、雲丸が遊べるような獣を模した品が届いた。
明智光秀からも一つ。
少弐は並べながら苦笑した。
「一歳児に贈り物が集まりすぎじゃないか?」
ライラは気にしていない。
「雲丸が喜ぶならいいでしょう」
肝心の雲丸は、立派な贈答品と包んであった紙のどちらを気に入るか分からない。
少弐としては、それだけが心配だった。
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ところが赤松氏だけは違った。
玩具を送らなかった。
本物を送ってきた。
「犬?」
少弐が驚いた。
「室蘭より取り寄せたものとのことでございます」
「……なんで室蘭から?」
理由も添えられていた。
少弐が北方へ旅した際に長く滞在し、商館まで設けた土地。
そこから犬を取り寄せれば、少弐家ゆかりの獣になる。
さらに幼児の相手にする以上、気性を見て、人によく慣れ、きちんと躾けられた雄を選んだらしい。
これが実によくできた犬だった。
賢い。
よく働く。
よく動く。
人の言うことも聞く。
そして何より、雲丸に対して恐ろしく辛抱強かった。
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雲丸が背中へ乗る。
犬はじっとしている。
尻尾を掴む。
振り返るが怒らない。
耳を触る。
耐える。
鼻へ指を持っていく。
顔を逸らす。
目へ指を入れようとする。
さすがに少弐が止めた。
「それは駄目だ、雲丸」
犬はそれでも唸らなかった。
少弐は感心した。
「お前、偉いなあ」
犬は尻尾を振った。
ライラもすっかり気に入った。
何より雲丸が歩けば、自然とその横について歩く。
雲丸が転べば止まる。
庭へ行けばついていく。
まるで最初から自分の仕事を理解しているようだった。
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問題は名前だった。
赤松側からは特に名を指定されていない。
そこで少弐が、
「藤原に吉報をもたらす雄だから――」
と考え、
藤吉郎
と名付けた。
「藤吉郎」
呼ぶ。
犬が来る。
「おお。もう分かるのか」
雲丸も真似をしようとした。
「……と」
「藤吉郎」
「と」
「まだ無理か」
藤吉郎は構わず雲丸の横へ伏せた。
すっかり有馬の家の一員になっていた。
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そんなクリスマスの日。
珍しい客が有馬を訪ねてきた。
明智光秀だった。
この世界ではすでにカトリックへ帰依している。
だから十二月二十五日に少弐を訪ねることには、光秀なりの意味があった。
「本日は戦の話を持って参ったわけではござらぬ」
「その割に明智殿が来ると戦の話になる気がする」
光秀が笑った。
「では休戦ということにいたしましょう」
「誰と誰の?」
「さて」
二人は笑った。
信仰の祝日だからこそ、政治や戦の敵味方から少し離れて訪ねてきた――少なくとも表向きはそういうことらしい。
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しかし光秀が何も知らずに来るはずもなかった。
しばらくすると、やはり三木の話になった。
「羽柴殿ですが」
「ほら、戦の話になった」
「これは世間話にございます」
光秀は楽しそうだった。
「三木を離れてからというもの、神戸のことをよく申されます」
少弐が嫌そうな顔をする。
「聞いてます」
「よほど腹に据えかねたらしい」
「俺、最後の三か月くらい何もしてないんだけど」
「だからでは?」
少弐が光秀を見る。
光秀は笑っている。
前半では散々引っかき回された。
ようやく裁定が出る。
すると少弐は本当に引いた。
だから秀吉には言い訳ができなくなった。
そこから三か月以上攻めても三木は落ちなかった。
「しかも最後には丹波へ転進することとなった」
光秀は面白そうにキセルを持つ少弐を見る。
「羽柴殿にしてみれば、三木城を思い出すたび、その前半にいた少弐殿まで一緒に思い出されるのでござろう」
「迷惑だなあ」
「どちらが?」
「俺が」
光秀が声を上げて笑った。
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その間も藤吉郎は雲丸について歩いていた。
雲丸がよちよち歩く。
藤吉郎が隣を歩く。
雲丸が止まる。
藤吉郎も止まる。
雲丸が突然犬の背へ抱きつく。
藤吉郎は伏せる。
光秀はしばらくその様子を眺めていた。
「ずいぶん馴染みましたな」
「赤松殿からです」
「ほう」
「室蘭から取り寄せたらしい」
「それはまた」
「藤吉郎って名前にした」
光秀の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……藤吉郎」
「うん」
光秀が犬を見る。
犬が尻尾を振る。
雲丸が背中へ乗ろうとしている。
少弐が止める。
「雲丸、何度も乗るな。藤吉郎が疲れる」
光秀の口元が動いた。
明らかに笑いを堪えている。
「どうした?」
「いや」
「何?」
光秀は少弐へ少し身を寄せた。
声を落とす。
「少弐殿」
「うん」
「羽柴殿の昔の名をご存じないので?」
「昔?」
「木下殿であったころ」
少弐は首を傾げた。
光秀が囁いた。
「藤吉郎」
少弐が止まった。
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庭を見る。
犬がいる。
その上へ雲丸が半分乗っている。
「……あれが?」
「藤吉郎」
光秀が答える。
「羽柴秀吉殿も?」
「藤吉郎」
少弐はもう一度犬を見る。
ちょうど藤吉郎が雲丸に尻尾を掴まれていた。
それでも怒らない。
「…………」
光秀がとうとう笑い出した。
「明智殿」
「いや、失礼」
「知らなかった」
「それが一番面白い」
「赤松殿は知ってたのかな」
二人とも黙った。
あり得る。
少弐は少し考えた。
「名前、変えた方がいい?」
光秀は即答した。
「いや」
珍しく強かった。
「ぜひ、そのままに」
「なんでだよ」
「賢く、働き者で、よく動くのでしょう?」
「うん」
「ならば実によい名ではござらぬか」
完全に楽しんでいる。
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雲丸がまた歩き出した。
藤吉郎がその横につく。
一歳二か月。
まだ足取りは危なっかしい。
だが、転びそうになりながら前へ進む。
少弐はそれを見ていた。
明日の夜には、もうこの景色を見られない。
クリスマスが終われば約束どおり旅立つ。
海へ出る。
瀬戸内を抜け、南へ。
ジャワ。
スマトラ。
南海の古い仏教寺院。
義浄の記録につながる土地。
どれだけの日数がかかるか分からない。
少弐は雲丸を抱き上げた。
「父上、明日からちょっと遠くへ行ってくるからな」
「ん」
雲丸は分かっていない。
視線は少弐ではなく、その後ろの藤吉郎に向いていた。
「……聞いてないな」
ライラが笑った。
「一歳よ」
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夜。
クリスマスの祈りを終えた後も、光秀は少しだけ残った。
少弐と静かにキセルをふかす。
今日は休戦。
秀吉とも。
信長とも。
世間とも。
そういう一日でいい。
やがて光秀が帰り、家が静かになった。
雲丸も眠った。
藤吉郎はその近くで伏せている。
少弐は荷を確認した。
明日からは再び旅人になる。
ライラが言った。
「約束は守ったわね」
「うん」
「だから行っていい」
少弐は頷いた。
「六月までには戻る」
今度はライラの腹を見る。
雲丸の弟か妹。
まだ姿を見ることのできない二人目の子がそこにいる。
「絶対よ」
「分かってる」
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こうして天正二年のクリスマスは終わった。
翌日。
少弐冬明は有馬を発ち、船へ向かう。
目指すは南海――ジャワ、スマトラ。
有馬にはライラと、生まれてくる二人目の子。
一歳二か月になった雲丸。
そして雲丸の歩みに付き添う、一頭の賢い犬が残る。
その犬の名を、
藤吉郎。
少弐がその名の偶然を知ったのは、南海へ旅立つ前夜。
よりによって、羽柴秀吉の三木攻めでの怒りようを聞かせに来た明智光秀からであった。




