十二月半ば――羽柴を読む者、読まれる者
天正二年十二月半ば。
有馬はすっかり冬の景色になっていた。
少弐冬明は、ライラとの約束どおりクリスマスまでは有馬を離れない。
ジャワとスマトラへ向かうのは、その後。
それまでは雲丸と過ごす。
もっともライラからも「必要な執務までするな」と言われたわけではないので、清盛館や各地から届く書状には目を通していた。
少弐本人が清盛館へ行かないだけで、仕事の方が有馬まで追いかけてくるのである。
その日も、いくつもの書状が届けられた。
その中で最初に少弐が開いたのは――
羽柴秀吉についての報告だった。
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秀吉は十月下旬、三木城の包囲を解いて丹波へ転進している。
きっかけは弟・秀長だった。
先に丹波方面で動いていた秀長軍が攻勢に出て、攻めていた城の一角を破壊。そこから兵を討ち入らせることに成功した。
城そのものを完全に落としたわけではない。
だが、七か月攻めても落ちない三木とは違う。
丹波では明確に穴が開いた。
秀吉はそこを見逃さなかった。
三木の包囲を畳み、軍勢をまとめ、そのまま丹波へ転じた。
そして十二月現在――
弟の秀長とともに攻略を進めている。
少弐はそこまで読んでから、次の一文で目を止めた。
「羽柴筑前、弟秀長を助くるも、三木長陣の疲労多く、往時ほどの冴え見えず」
「……やっぱり疲れてるか」
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無理もなかった。
三木城を七か月。
ただ包囲していただけではない。
最初は四十郎が荷を運んだ。
止められた。
また運んだ。
羽柴兵に突き飛ばされ、荷駄を壊された。
そこで少弐本人が出てきた。
秀吉の陣へ乗り込み、四十郎への謝罪と荷の弁償を求め、五日も粘った。
それから市。
規制。
買い占め。
新しい市。
赤松氏の介入。
信長の裁定。
六月末に裁定が決まってからは少弐が手を引いたが、その後も秀吉は三か月以上、本格的に三木城を攻め続けた。
包囲。
攻撃。
夜襲。
また包囲。
兵糧は最後まで残った。
だが――
米があるからといって、人間の疲労までなくなるわけではない。
そして十月下旬。
ようやく三木を畳んだと思ったら、そのまま丹波へ転進している。
秀長を助ける。
指図もする。
兵も動かす。
判断力を失ったわけではない。
それでも以前ほどの冴えが見えない。
少弐はその部分に印を付けさせた。
「疲れている時にどういう指図をするかも記録しておいて」
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しかし次の報告を読んだところで、少弐の表情が変わった。
「……神戸?」
丹波へ転じてからも、秀吉は常々神戸のことを口にしているという。
三木城の話をしていたはずなのに、いつの間にか兵庫津の話になる。
市。
荷駄。
清盛館。
六甲。
有馬。
そして少弐冬明。
さらに――
三木城攻めで起きた出来事について、かなり細かく記録を整理させている節があった。
その一部は、若狭方面へも送られているらしい。
「若狭に?」
「そのようにございます」
少弐は報告をもう一度読む。
「三木の戦を研究してるのか?」
確証はない。
だが、そのように見える。
なぜ三木は落ちなかったのか。
なぜ予定以上に長引いたのか。
どこで軍の勢いを失ったのか。
少弐の市へ、なぜあれほど銭を使うことになったのか。
四十郎一人を止めるところから、なぜ赤松氏と信長の裁定にまで話が広がったのか。
そして――
少弐冬明は、何を狙っていたのか。
それを秀吉も考え始めているらしい。
少弐は嫌そうな顔をした。
「……俺と同じことしてない?」
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少弐自身も、七月から秀吉を調べ続けていた。
山城攻め。
夢野。
若狭。
丹波。
播磨。
三木。
いつ動いたのか。
どこを通ったのか。
何を持っていたのか。
兵糧はどのくらいだったのか。
どう城を攻めるのか。
失敗するとどう戦い方を変えるのか。
いつ諦めるのか。
何を理由に別の戦場へ転じるのか。
羽柴秀吉という男の戦い方そのものを記録している。
ところが向こうも、三木での経験から少弐を調べ始めた。
「次に会った時は面倒だな」
少弐は呟いた。
同じ市を開いても、もう買い占めてはくれないだろう。
同じ理屈を使っても、今度は先に塞いでくるかもしれない。
「でも――」
少弐は少し笑った。
「向こうもそう思ってるのかな」
奇妙な関係だった。
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午後になると、今度は渡辺から大きな荷が届いた。
中身は書物だった。
少弐の顔が明るくなる。
「おお」
すると、もう一人反応した。
雲丸である。
一歳になった雲丸は最近、紙を見ると寄ってくる。
読むためではない。
掴む。
引っ張る。
丸める。
くしゃくしゃにする。
少弐は素早く箱を高いところへ置かせた。
「これはお前には渡さない」
雲丸が見上げる。
「この前、遣唐使の目録を潰しただろ」
当然、雲丸は覚えていない。
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渡辺から届いた最初の一冊。
表題は、
『対羽柴秀吉目録』。
「出来たか」
少弐がすぐ手に取った。
もちろん完成ではない。
羽柴秀吉が生きて動いている以上、この本も増え続ける。
これまで集めた記録を整理した現段階での集成だった。
山城方面での動き。
夢野での戦。
若狭。
丹波への進出。
播磨。
三木城攻め。
そして現在の丹波への転進。
年月日。
移動経路。
兵数。
装備。
荷駄。
補給。
攻城。
包囲。
夜襲。
撤収。
転進。
さらに重要なのが、
実見。
伝聞。
推測。
三つを可能な限り分けて記載していることだった。
少弐は表紙を見ながら苦笑する。
「向こうも神戸を調べて、こっちにもこれが届くのか」
互いに戦ってはいない。
しかし――
互いに相手を研究している。
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二冊目は、
『元就公記』。
こちらは毛利元就についてまとめたものだった。
少弐が厳島で本人から聞いた話。
元就自身が語った昔の戦。
毛利家をまとめていった時の苦労。
統治。
家族。
毛利家中から聞き取った逸話。
そして少弐自身が実際に接して感じた元就の姿。
それらを時系列に並べている。
少弐は何頁か読んでから言った。
「これは写しを一冊作っておいて」
「どちらへ?」
「元就公」
本人が存命なのだから、本人に読んでもらえばいい。
「違うところには朱を入れてもらおう」
本人の記憶と周囲の証言が違うなら、両方残せばいい。
少弐はむしろ楽しそうだった。
「自分の歴史書を本人に添削してもらえるんだから、一番確かだ」
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三冊目。
『坂上田村麿軍記』。
これは以前より格段に厚くなっていた。
奥州各地で集めた坂上田村麻呂の伝承。
鬼。
大蛇。
竜神。
岩木山。
寺社縁起。
土地の老人から聞いた話。
豪族に伝わる記録。
さらには、
「これは史実の可能性あり」
「これは後世の伝説と思われる」
「同型の伝承が別地域にも存在する」
といった注記まで増えている。
少弐は感心した。
「立派になったな」
旅の途中で聞いた昔話を書き留めるところから始まったものが、今では本当に一冊の軍記になりつつある。
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そして四冊目。
少弐は題を読んだ途端に笑った。
『義経演義 韃靼再起編』。
「まだ続いてたのか、これ」
義経北行伝説。
蝦夷。
樺太。
大陸。
韃靼。
北方の旅で拾ったさまざまな伝承を材料に、
もし源義経が本当に北へ逃げ延びていたなら――
という形で好き放題に膨らませた物語である。
こちらは最初から史書ではない。
演義。
だからこそ自由だった。
雲丸が手を伸ばした。
少弐はすぐ本を持ち上げる。
「これは駄目」
雲丸がつかまり立ちする。
「もう少し大きくなったら読んでやるから」
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書物の最後に、一冊だけ雰囲気の違うものがあった。
帳簿だった。
少弐は少し身構えた。
「……三木か」
三木城攻めの間、相当な銭を使っている。
四十郎への資金。
人足。
荷駄。
市。
輸送。
三木周辺への物資。
喜捨。
炊き出し。
少弐自身、
今回は赤字でも仕方がない
と思っていた。
帳簿を開く。
数字を追う。
最後を見る。
少弐が止まった。
「……ん?」
もう一度見る。
「黒字?」
さらに計算を見る。
「これ、大幅に黒字じゃない?」
間違いではなかった。
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理由を追っていけば分かった。
まず、三木で行った喜捨。
派手ではあった。
だが、実際に物を無料で配った期間そのものは短い。
一人に渡したものも高価ではない。
途中からは炊き出しに切り替えた。
米。
雑穀。
味噌。
野菜。
人数が多ければ費用はかかるが、一人一膳にすれば単価は低い。
一方――
その前後で少弐が稼いだ額が大きかった。
山城。
大和。
摂津。
公家。
寺社。
少弐が持ち込む珍品。
輸入品。
香。
書物。
工芸品。
それらを欲しがる者から、相当に銭を取っている。
少弐は帳簿を見ながら呟いた。
「公家と寺社から、ずいぶん巻き上げたな……」
そして何より大きかったのが――
羽柴秀吉だった。
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三木城攻めの前半。
秀吉は少弐の市から三木城へ物資が流れることを警戒した。
そこで兵を送り、商品を買い占めた。
少弐は市を増やした。
秀吉が買う。
また並べる。
また買う。
さらに遠い場所にも市を立てた。
そこには少し単価の高い商品を混ぜた。
それも買う。
やがて少弐は商品構成を変えた。
米。
味噌。
塩。
酒。
鍋。
草履。
陣笠。
長い戦をしている兵士なら欲しくなるものを増やした。
すると途中から、
三木城へ渡させないために買っていた羽柴軍が、自分たちのために買い始めた。
それが何か月も続いた。
羽柴軍には兵糧があった。
だが、戦場で少しでも暮らしを良くする商品はいくらでも売れた。
積み重なった銭は大きかった。
帳簿の最後には、渡辺の注記があった。
「三木一件、喜捨ならびに諸費用を差し引き候ても、なお大いに益あり」
少弐は黙った。
しばらくして、
「……戦場で商売して、大儲けしたことになるな」
と呟いた。
あまり気分のいい結論ではなかった。
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少弐は帳簿を閉じた。
そして少し考えた。
「渡辺に返事を書く」
「何と?」
「炊き出しを続けよう」
「三木にございますか?」
「いや」
少弐は首を振った。
「清盛館の前」
そして付け加えた。
「毎週、日曜」
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三木城を救うためではない。
羽柴秀吉を困らせるためでもない。
市の規制を破るためでもない。
戦とは無関係にする。
毎週日曜日。
清盛館の前へ大鍋を出す。
米や雑穀。
味噌。
野菜。
港で余った魚があれば買い取って入れる。
食事に困っている者が来れば、一膳出す。
港の日雇い。
船乗り。
旅人。
貧しい者。
身分も出身も問わない。
「銭は?」
「取らない」
「毎週でございますか」
「毎週」
少弐はキリシタンだった。
「俺にとって日曜は安息日だから」
そして帳簿を軽く叩いた。
「戦で入ってきた銭を全部懐に入れるより、毎週少しずつ飯に戻した方がいい」
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命令は清盛館へ送られた。
そして最初の日曜日。
館の前に大きな鍋が据えられた。
湯気が立つ。
通りかかった者たちは、最初は不審そうに眺めた。
「また何か始めるのか?」
三木城攻めのころを知る者なら、そう思っても不思議ではない。
「羽柴がまた来るのか?」
「違うらしい」
「では、これは?」
清盛館の者が答えた。
「炊き出しじゃ」
「何のための?」
「日曜だからだそうじゃ」
「……日曜?」
よく分からない。
だが、飯は温かい。
一人が椀を受け取った。
次の者が並ぶ。
やがて小さな列ができた。
三木では政治の道具でもあった喜捨が、ここではただの喜捨になった。
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その報告を、有馬で少弐が読んだ。
「始まったか」
「何が?」
ライラが聞く。
「清盛館の炊き出し」
少弐は帳簿を見せた。
「三木で儲かった分を、少し返すことにした」
「誰に返すの?」
少弐は少し考えた。
三木の者ではない。
羽柴でもない。
神戸の者だけでもない。
キリシタンである必要さえない。
「誰でもいい」
ライラは少し笑った。
「それならいいんじゃない?」
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そのとき、雲丸が机につかまって立ち上がった。
狙っているものがある。
『対羽柴秀吉目録』。
少弐は気づいた。
「あ」
雲丸が手を伸ばす。
少弐は本を取る。
「これは駄目」
雲丸が歩き出した。
一歩。
二歩。
少弐が少し下がる。
三歩。
四歩。
五歩。
「おお」
さらに一歩。
少弐も後ろへ下がった。
「冬明」
ライラの声が飛んだ。
「雲丸で遊ばないの」
「歩く練習だ」
「書物を餌にしない」
「でも今日はよく歩いて――」
「冬明」
「はい」
少弐は止まった。
雲丸がたどたどしく残りの距離を歩き、その脚へ抱きついた。
少弐は『対羽柴秀吉目録』を高く掲げたまま、雲丸を片腕で抱き上げた。
「これは大きくなったら見せてやる」
雲丸には何のことか分からない。
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三木の戦は終わった。
羽柴秀吉は丹波へ転進し、弟・秀長が作った突破口を広げようとしている。
三木での疲労を抱え、以前ほどの冴えはない。
それでも戦いながら、秀吉は神戸について語り、三木城攻めを振り返り、少弐という相手を研究し始めている。
一方、有馬の少弐の手元には、
『対羽柴秀吉目録』
が届いていた。
秀吉は少弐を読む。
少弐は秀吉を読む。
次に両者が向き合った時、三木で使った手はおそらくそのままでは通用しない。
だが今はまだ冬だった。
少弐は有馬で雲丸を抱き、ライラの腹には二人目の子がいる。
そして毎週日曜日になると、神戸の清盛館の前では大鍋から湯気が立つ。
戦場で羽柴から得た銭の一部が、
今度は誰とも争うことなく、一杯の温かい飯へ変わっていく。
三木で政治と経済の武器として始まった喜捨は、戦が終わってようやく、ただ人に食べてもらうための喜捨になったのである。




