表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
933/1021

十二月半ば――羽柴を読む者、読まれる者

天正二年十二月半ば。


有馬はすっかり冬の景色になっていた。


少弐冬明は、ライラとの約束どおりクリスマスまでは有馬を離れない。


ジャワとスマトラへ向かうのは、その後。


それまでは雲丸と過ごす。


もっともライラからも「必要な執務までするな」と言われたわけではないので、清盛館や各地から届く書状には目を通していた。


少弐本人が清盛館へ行かないだけで、仕事の方が有馬まで追いかけてくるのである。


その日も、いくつもの書状が届けられた。


その中で最初に少弐が開いたのは――


羽柴秀吉についての報告だった。



---


秀吉は十月下旬、三木城の包囲を解いて丹波へ転進している。


きっかけは弟・秀長だった。


先に丹波方面で動いていた秀長軍が攻勢に出て、攻めていた城の一角を破壊。そこから兵を討ち入らせることに成功した。


城そのものを完全に落としたわけではない。


だが、七か月攻めても落ちない三木とは違う。


丹波では明確に穴が開いた。


秀吉はそこを見逃さなかった。


三木の包囲を畳み、軍勢をまとめ、そのまま丹波へ転じた。


そして十二月現在――


弟の秀長とともに攻略を進めている。


少弐はそこまで読んでから、次の一文で目を止めた。


「羽柴筑前、弟秀長を助くるも、三木長陣の疲労多く、往時ほどの冴え見えず」


「……やっぱり疲れてるか」



---


無理もなかった。


三木城を七か月。


ただ包囲していただけではない。


最初は四十郎が荷を運んだ。


止められた。


また運んだ。


羽柴兵に突き飛ばされ、荷駄を壊された。


そこで少弐本人が出てきた。


秀吉の陣へ乗り込み、四十郎への謝罪と荷の弁償を求め、五日も粘った。


それから市。


規制。


買い占め。


新しい市。


赤松氏の介入。


信長の裁定。


六月末に裁定が決まってからは少弐が手を引いたが、その後も秀吉は三か月以上、本格的に三木城を攻め続けた。


包囲。


攻撃。


夜襲。


また包囲。


兵糧は最後まで残った。


だが――


米があるからといって、人間の疲労までなくなるわけではない。


そして十月下旬。


ようやく三木を畳んだと思ったら、そのまま丹波へ転進している。


秀長を助ける。


指図もする。


兵も動かす。


判断力を失ったわけではない。


それでも以前ほどの冴えが見えない。


少弐はその部分に印を付けさせた。


「疲れている時にどういう指図をするかも記録しておいて」



---


しかし次の報告を読んだところで、少弐の表情が変わった。


「……神戸?」


丹波へ転じてからも、秀吉は常々神戸のことを口にしているという。


三木城の話をしていたはずなのに、いつの間にか兵庫津の話になる。


市。


荷駄。


清盛館。


六甲。


有馬。


そして少弐冬明。


さらに――


三木城攻めで起きた出来事について、かなり細かく記録を整理させている節があった。


その一部は、若狭方面へも送られているらしい。


「若狭に?」


「そのようにございます」


少弐は報告をもう一度読む。


「三木の戦を研究してるのか?」


確証はない。


だが、そのように見える。


なぜ三木は落ちなかったのか。


なぜ予定以上に長引いたのか。


どこで軍の勢いを失ったのか。


少弐の市へ、なぜあれほど銭を使うことになったのか。


四十郎一人を止めるところから、なぜ赤松氏と信長の裁定にまで話が広がったのか。


そして――


少弐冬明は、何を狙っていたのか。


それを秀吉も考え始めているらしい。


少弐は嫌そうな顔をした。


「……俺と同じことしてない?」



---


少弐自身も、七月から秀吉を調べ続けていた。


山城攻め。


夢野。


若狭。


丹波。


播磨。


三木。


いつ動いたのか。


どこを通ったのか。


何を持っていたのか。


兵糧はどのくらいだったのか。


どう城を攻めるのか。


失敗するとどう戦い方を変えるのか。


いつ諦めるのか。


何を理由に別の戦場へ転じるのか。


羽柴秀吉という男の戦い方そのものを記録している。


ところが向こうも、三木での経験から少弐を調べ始めた。


「次に会った時は面倒だな」


少弐は呟いた。


同じ市を開いても、もう買い占めてはくれないだろう。


同じ理屈を使っても、今度は先に塞いでくるかもしれない。


「でも――」


少弐は少し笑った。


「向こうもそう思ってるのかな」


奇妙な関係だった。



---


午後になると、今度は渡辺から大きな荷が届いた。


中身は書物だった。


少弐の顔が明るくなる。


「おお」


すると、もう一人反応した。


雲丸である。


一歳になった雲丸は最近、紙を見ると寄ってくる。


読むためではない。


掴む。


引っ張る。


丸める。


くしゃくしゃにする。


少弐は素早く箱を高いところへ置かせた。


「これはお前には渡さない」


雲丸が見上げる。


「この前、遣唐使の目録を潰しただろ」


当然、雲丸は覚えていない。



---


渡辺から届いた最初の一冊。


表題は、


『対羽柴秀吉目録』。


「出来たか」


少弐がすぐ手に取った。


もちろん完成ではない。


羽柴秀吉が生きて動いている以上、この本も増え続ける。


これまで集めた記録を整理した現段階での集成だった。


山城方面での動き。


夢野での戦。


若狭。


丹波への進出。


播磨。


三木城攻め。


そして現在の丹波への転進。


年月日。


移動経路。


兵数。


装備。


荷駄。


補給。


攻城。


包囲。


夜襲。


撤収。


転進。


さらに重要なのが、


実見。


伝聞。


推測。


三つを可能な限り分けて記載していることだった。


少弐は表紙を見ながら苦笑する。


「向こうも神戸を調べて、こっちにもこれが届くのか」


互いに戦ってはいない。


しかし――


互いに相手を研究している。



---


二冊目は、


『元就公記』。


こちらは毛利元就についてまとめたものだった。


少弐が厳島で本人から聞いた話。


元就自身が語った昔の戦。


毛利家をまとめていった時の苦労。


統治。


家族。


毛利家中から聞き取った逸話。


そして少弐自身が実際に接して感じた元就の姿。


それらを時系列に並べている。


少弐は何頁か読んでから言った。


「これは写しを一冊作っておいて」


「どちらへ?」


「元就公」


本人が存命なのだから、本人に読んでもらえばいい。


「違うところには朱を入れてもらおう」


本人の記憶と周囲の証言が違うなら、両方残せばいい。


少弐はむしろ楽しそうだった。


「自分の歴史書を本人に添削してもらえるんだから、一番確かだ」



---


三冊目。


『坂上田村麿軍記』。


これは以前より格段に厚くなっていた。


奥州各地で集めた坂上田村麻呂の伝承。


鬼。


大蛇。


竜神。


岩木山。


寺社縁起。


土地の老人から聞いた話。


豪族に伝わる記録。


さらには、


「これは史実の可能性あり」


「これは後世の伝説と思われる」


「同型の伝承が別地域にも存在する」


といった注記まで増えている。


少弐は感心した。


「立派になったな」


旅の途中で聞いた昔話を書き留めるところから始まったものが、今では本当に一冊の軍記になりつつある。



---


そして四冊目。


少弐は題を読んだ途端に笑った。


『義経演義 韃靼再起編』。


「まだ続いてたのか、これ」


義経北行伝説。


蝦夷。


樺太。


大陸。


韃靼。


北方の旅で拾ったさまざまな伝承を材料に、


もし源義経が本当に北へ逃げ延びていたなら――


という形で好き放題に膨らませた物語である。


こちらは最初から史書ではない。


演義。


だからこそ自由だった。


雲丸が手を伸ばした。


少弐はすぐ本を持ち上げる。


「これは駄目」


雲丸がつかまり立ちする。


「もう少し大きくなったら読んでやるから」



---


書物の最後に、一冊だけ雰囲気の違うものがあった。


帳簿だった。


少弐は少し身構えた。


「……三木か」


三木城攻めの間、相当な銭を使っている。


四十郎への資金。


人足。


荷駄。


市。


輸送。


三木周辺への物資。


喜捨。


炊き出し。


少弐自身、


今回は赤字でも仕方がない


と思っていた。


帳簿を開く。


数字を追う。


最後を見る。


少弐が止まった。


「……ん?」


もう一度見る。


「黒字?」


さらに計算を見る。


「これ、大幅に黒字じゃない?」


間違いではなかった。



---


理由を追っていけば分かった。


まず、三木で行った喜捨。


派手ではあった。


だが、実際に物を無料で配った期間そのものは短い。


一人に渡したものも高価ではない。


途中からは炊き出しに切り替えた。


米。


雑穀。


味噌。


野菜。


人数が多ければ費用はかかるが、一人一膳にすれば単価は低い。


一方――


その前後で少弐が稼いだ額が大きかった。


山城。


大和。


摂津。


公家。


寺社。


少弐が持ち込む珍品。


輸入品。


香。


書物。


工芸品。


それらを欲しがる者から、相当に銭を取っている。


少弐は帳簿を見ながら呟いた。


「公家と寺社から、ずいぶん巻き上げたな……」


そして何より大きかったのが――


羽柴秀吉だった。



---


三木城攻めの前半。


秀吉は少弐の市から三木城へ物資が流れることを警戒した。


そこで兵を送り、商品を買い占めた。


少弐は市を増やした。


秀吉が買う。


また並べる。


また買う。


さらに遠い場所にも市を立てた。


そこには少し単価の高い商品を混ぜた。


それも買う。


やがて少弐は商品構成を変えた。


米。


味噌。


塩。


酒。


鍋。


草履。


陣笠。


長い戦をしている兵士なら欲しくなるものを増やした。


すると途中から、


三木城へ渡させないために買っていた羽柴軍が、自分たちのために買い始めた。


それが何か月も続いた。


羽柴軍には兵糧があった。


だが、戦場で少しでも暮らしを良くする商品はいくらでも売れた。


積み重なった銭は大きかった。


帳簿の最後には、渡辺の注記があった。


「三木一件、喜捨ならびに諸費用を差し引き候ても、なお大いに益あり」


少弐は黙った。


しばらくして、


「……戦場で商売して、大儲けしたことになるな」


と呟いた。


あまり気分のいい結論ではなかった。



---


少弐は帳簿を閉じた。


そして少し考えた。


「渡辺に返事を書く」


「何と?」


「炊き出しを続けよう」


「三木にございますか?」


「いや」


少弐は首を振った。


「清盛館の前」


そして付け加えた。


「毎週、日曜」



---


三木城を救うためではない。


羽柴秀吉を困らせるためでもない。


市の規制を破るためでもない。


戦とは無関係にする。


毎週日曜日。


清盛館の前へ大鍋を出す。


米や雑穀。


味噌。


野菜。


港で余った魚があれば買い取って入れる。


食事に困っている者が来れば、一膳出す。


港の日雇い。


船乗り。


旅人。


貧しい者。


身分も出身も問わない。


「銭は?」


「取らない」


「毎週でございますか」


「毎週」


少弐はキリシタンだった。


「俺にとって日曜は安息日だから」


そして帳簿を軽く叩いた。


「戦で入ってきた銭を全部懐に入れるより、毎週少しずつ飯に戻した方がいい」



---


命令は清盛館へ送られた。


そして最初の日曜日。


館の前に大きな鍋が据えられた。


湯気が立つ。


通りかかった者たちは、最初は不審そうに眺めた。


「また何か始めるのか?」


三木城攻めのころを知る者なら、そう思っても不思議ではない。


「羽柴がまた来るのか?」


「違うらしい」


「では、これは?」


清盛館の者が答えた。


「炊き出しじゃ」


「何のための?」


「日曜だからだそうじゃ」


「……日曜?」


よく分からない。


だが、飯は温かい。


一人が椀を受け取った。


次の者が並ぶ。


やがて小さな列ができた。


三木では政治の道具でもあった喜捨が、ここではただの喜捨になった。



---


その報告を、有馬で少弐が読んだ。


「始まったか」


「何が?」


ライラが聞く。


「清盛館の炊き出し」


少弐は帳簿を見せた。


「三木で儲かった分を、少し返すことにした」


「誰に返すの?」


少弐は少し考えた。


三木の者ではない。


羽柴でもない。


神戸の者だけでもない。


キリシタンである必要さえない。


「誰でもいい」


ライラは少し笑った。


「それならいいんじゃない?」



---


そのとき、雲丸が机につかまって立ち上がった。


狙っているものがある。


『対羽柴秀吉目録』。


少弐は気づいた。


「あ」


雲丸が手を伸ばす。


少弐は本を取る。


「これは駄目」


雲丸が歩き出した。


一歩。


二歩。


少弐が少し下がる。


三歩。


四歩。


五歩。


「おお」


さらに一歩。


少弐も後ろへ下がった。


「冬明」


ライラの声が飛んだ。


「雲丸で遊ばないの」


「歩く練習だ」


「書物を餌にしない」


「でも今日はよく歩いて――」


「冬明」


「はい」


少弐は止まった。


雲丸がたどたどしく残りの距離を歩き、その脚へ抱きついた。


少弐は『対羽柴秀吉目録』を高く掲げたまま、雲丸を片腕で抱き上げた。


「これは大きくなったら見せてやる」


雲丸には何のことか分からない。



---


三木の戦は終わった。


羽柴秀吉は丹波へ転進し、弟・秀長が作った突破口を広げようとしている。


三木での疲労を抱え、以前ほどの冴えはない。


それでも戦いながら、秀吉は神戸について語り、三木城攻めを振り返り、少弐という相手を研究し始めている。


一方、有馬の少弐の手元には、


『対羽柴秀吉目録』


が届いていた。


秀吉は少弐を読む。


少弐は秀吉を読む。


次に両者が向き合った時、三木で使った手はおそらくそのままでは通用しない。


だが今はまだ冬だった。


少弐は有馬で雲丸を抱き、ライラの腹には二人目の子がいる。


そして毎週日曜日になると、神戸の清盛館の前では大鍋から湯気が立つ。


戦場で羽柴から得た銭の一部が、


今度は誰とも争うことなく、一杯の温かい飯へ変わっていく。


三木で政治と経済の武器として始まった喜捨は、戦が終わってようやく、ただ人に食べてもらうための喜捨になったのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ