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冬の有馬――雲丸の傅役と、遣唐使の行き荷

天正二年十一月末。


少弐冬明は、約束どおり有馬にいた。


ライラから許されたのは、必要な執務だけである。


清盛館へ毎日のように顔を出すのは禁止。


何かあれば書状を持ってこさせる。


どうしても本人でなければ処理できない案件だけ有馬で裁く。


そしてクリスマスが終わるまでは、雲丸とライラのそばにいる。


少弐も今回は素直に従っていた。


もっとも――有馬で暮らしてみると、戦や商売とはまったく違う種類の報告が毎日のように上がってきた。


「冬明」


「うん」


「今日、雲丸が四歩歩いた」


「昨日は?」


「三歩」


「増えたな」


「でしょう?」


これが朝。


昼になる。


「冬明」


「うん」


「さっき五歩いった」


「本当?」


「最後は転んだけど」


そして夕方。


「冬明」


「うん」


「聞いて。今日は五歩」


「それ昼に聞いた」


「でも五歩よ」


「うん。すごい」


ライラは満足そうに頷いた。



---


雲丸も一歳になっていた。


何かにつかまれば、自分で立ち上がれる。


柱。


少弐の膝。


ライラの服。


手頃なものなら何でも使う。


そこから手を離す。


一歩。


二歩。


三歩。


危なっかしく身体が揺れる。


少弐が両手を広げる。


「来い、雲丸」


雲丸は一生懸命こちらへ来る。


四歩目。


五歩目。


そして最後は少弐の胸へ倒れ込んだ。


「おお!」


少弐は本人以上に喜んだ。


後ろからライラが言う。


「六歩」


「五歩じゃなかった?」


「今ので六歩」


「増えたな」


「でしょう?」


少弐は笑った。


おそらく今日の残りだけで、この話をあと三回くらい聞かされる。


それも悪くなかった。



---


もっとも、少弐は遊んでいるだけではなかった。


雲丸が一歳になったことで、以前から考えていたことを一つ決めた。


別所四十郎。


いや――


別所長明。


三木城攻めの一件を経て、叔父・長治の「長」と少弐冬明の「明」を合わせた名を与えた男である。


少弐は長明を有馬へ呼んだ。


「長明」


「はい」


「仕事を一つ頼みたい」


長明が姿勢を正す。


少弐は隣で遊んでいる雲丸を指した。


「この子の傅役をやってくれ」


長明が固まった。


「……私が?」


「うん」


「雲丸様の?」


「そう」



---


長明は慌てた。


「お待ちくだされ。私は、そのような――」


「三木で半年以上、お前を見た」


少弐は遮った。


勇敢だから、だけではない。


叔父たちを助けるためなら無茶をする。


だが最後には命令を守った。


米を運ぶなと言えば運ばなかった。


見るだけにせよと言えば、感情を抑えて観察に徹した。


そして何度羽柴兵に追い返されても、自分の役目を投げなかった。


「武芸が一番強い奴なら、ほかにいる」


少弐虎衆にもいる。


須知もいる。


渡辺もいる。


「でも雲丸のそばに置くなら、俺はお前がいい」


長明はしばらく何も言えなかった。


やがて深く頭を下げた。


「謹んで、お受けいたします」


「ありがとう」



---


ただし、雲丸はまだ一歳である。


傅役といっても、今すぐ学問や武芸を教えるわけではない。


少弐が最初に長明へ与えた仕事は単純だった。


有馬の警護。


「まずここを覚えてくれ」


屋敷。


出入口。


湯治客が往来する場所。


山道。


神戸方面へ続く道。


周囲の寺社や村。


雲丸がどこで日々を過ごしているか。


ライラがどの時間に外へ出ることが多いか。


少弐が不在の時、誰に判断を仰ぐか。


「傅役になるなら、最初にこの子が暮らす場所を知ってほしい」


「承知いたしました」


こうして別所長明は、三木周辺を走り回る商人から一転して、有馬で雲丸を守る役目を与えられた。



---


その数日後。


有馬へ、五島から大きな報告が届いた。


海老屋に特注した引揚船が調査していた、三隻目の古船。


対馬の遣新羅使船。


瀬戸内の平安期の商船。


それに続いて発見された五島沖の船について、調査結果がまとまり始めた。


使者が言った。


「遣唐使の船と思われます」


少弐の手が止まった。


「……遣唐使?」


「はい」


少弐はすぐ書状を受け取った。



---


さらに面白いことが分かった。


帰りの船ではない。


唐へ向かう途中――行きの船だった。


その根拠の一つが積荷だった。


日本から外へ持ち出そうとしていた品々が残されている。


多くは海水に侵されている。


木や布は崩れたものもある。


容器だけになったものもある。


だが奇跡的に、いくつかの品が形を保っていた。


唐側へ贈るために積まれたと考えられる品。


朝廷からの正式な貢物・贈答品に関係すると見られるものまで含まれているという。


少弐は思わず立ち上がった。


「持ってきてる?」


「保存可能と判断されたものから順次」


「記録は?」


「引き揚げ位置も含めて作られております」


「船そのものは?」


「まだ五島沖に」


「よし」


少弐の声が明らかに弾んだ。



---


少弐にとって、これは単なる古物ではなかった。


以前、興福寺で遣隋使や遣唐使について尋ね、海路で天竺を目指した僧についてまで調べた。


その延長で南海へ目が向いた。


そして今――


実際に唐へ向かおうとして沈んだ船が見つかった。


「これ、航路も調べられるな」


船がどこで沈んだか。


季節は。


船体の構造は。


積荷をどのように配置していたか。


何を日本から持ち出していたか。


「全部残してくれ」


少弐は命じた。


品物だけ抜き取って終わりにはしない。


遣唐使がどんな船で、何を積み、どう海を渡ろうとしたのか。


可能な限り一つの記録としてまとめる。



---


「冬明」


後ろからライラの声がした。


「うん?」


「雲丸」


少弐が振り返る。


雲丸が柱につかまって立っている。


その少し先で長明がしゃがみ、両手を広げていた。


「雲丸様。こちらへ」


雲丸が手を離した。


一歩。


二歩。


三歩。


ふらつく。


四歩。


五歩。


長明のところへ倒れ込んだ。


「おお」


長明が慌てて抱き止める。


ライラがすぐ少弐を見る。


「五歩」


「うん」


「今の見た?」


「見た」


「五歩よ」


「分かった」


少弐は笑った。


机の上には、唐へたどり着けなかった船の記録がある。


目の前では、ようやく五歩ほど歩けるようになった息子がいる。


何百里もの海を渡ろうとした人々。


五歩進むだけで家中を喜ばせる子供。


少弐は遣唐使船の報告書を一度閉じた。


今はこちらを見ていようと思った。


するとライラが言った。


「冬明」


「何?」


「今日、これで七歩歩いた」


「さっき五歩って言っただろ」


「朝の二歩もあるでしょう」


「足すの?」


「当然でしょう」


長明が笑いを堪えている。


少弐は雲丸を抱き上げた。


「じゃあ今日は七歩だ」


唐までの海路には、まだ遠い。


けれど雲丸にとっては――


その七歩こそが、生まれて初めて自分の足で進み始めた長い旅だった。

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