北浦の湯
新年の坂東評定を終えた笠間幹永は、新たな役目を胸に北浦へ戻った。
笠間家へ婿入りした幹永を出迎えたのは、正室の娘・笠間綾乃であった。
「北浦をご案内しましょう。」
幹永はそう言うと、異国から伝わった羊毛の服を綾乃へ手渡す。
「冬の北浦は冷えます。この服なら暖かいですよ。」
二人は羊毛の服をまとい、坂東馬にまたがって北浦の湖畔をゆっくりと巡った。
湖畔では韓牛や坂東肉牛が草を食み、象の救急荷車が療養中の子牛を牛舎へ運んでいる。冬の間、水牛は霞ヶ浦や利根川沿いで越冬しており、北浦は静かな冬景色に包まれていた。
その時だった。
「ブオォォォ――!」
一頭の象が、珍しく大きな鳴き声を上げた。
幹永が振り返ると、象はこちらを見つめながら鼻を振り、まるで「こちらへ来い」と呼んでいるようだった。
「どうした?」
幹永と綾乃が後を追うと、象は湖畔の小さなくぼ地で立ち止まる。
そこだけ地面が大きく掘り返されていた。
象は鼻で土を押しのけ、さらに掘ろうとしている。
幹永が近づいた、その瞬間。
掘り返された土の隙間から白い湯気が立ち上った。
恐る恐る手をかざす。
「……熱い。」
思わず手を引っ込める。
冬の空気の中、その水は湯気を立てるほど熱かった。
綾乃も目を丸くする。
「温かい水が……湧いております。」
幹永はしばらく湧き口を見つめると、すぐに兄・幹久へ早馬を走らせた。
数日後、幹久は坂東農業公社の役人、獣医師団、石工、大工を率いて北浦へ到着する。
さらに、シャムやルソンから渡来し、今では北浦に根を下ろした元傭兵たちも続々と集まった。
「もう傭兵というより、坂東の百姓だな。」
幹永が笑うと、一人が肩をすくめた。
「俺たちもそう思います。」
その日から北浦は大工事となった。
湧き口を石で固め、木樋で湯を引き、周囲を掘り広げる。
獣医師団は湯量や温度を測り、家畜への影響を調べ続けた。
調査を終えた幹久は満足そうに報告する。
「草津や箱根ほどではありません。しかし、平地の湧き湯としては驚くほど湯量があります。」
獣医師団も続けた。
「人の湯治場と、牛馬の湯浴み場を分けて整備できます。」
幹永は立ち上る湯気を見つめ、静かに笑った。
「ならば、人も牛も癒やす湯にしよう。」
少し考えてから、さらに続ける。
「うまく利用できれば……いつの日か、水牛も北浦で冬を越せるかもしれない。」
その言葉に、兄・幹久も大きく頷いた。
象が偶然見つけた小さな湧き湯は、坂東農業公社の総力によって瞬く間に整備が進められ、人と家畜を支える北浦初の温泉として、新たな歩みを始めるのであった。




