十月下旬――三木を去り、丹波へ
天正二年十月下旬。
三木城を取り巻いていた羽柴軍に、明らかな変化が現れた。
最初にそれを見つけたのは、やはり別所四十郎だった。
七月以来、少弐冬明の命を受けて三木周辺を見続けてきた四十郎には、羽柴軍の普段の動きが分かるようになっていた。
包囲線を詰めるための移動。
攻撃前の兵の集結。
夜襲の準備。
荷駄の入れ替え。
だが、今回はどれとも違う。
散っていた兵が集められている。
陣から荷が運び出される。
旗がまとめられ、馬が集められる。
それまで城へ向けられていた部隊まで後ろへ下がっていた。
「……これは」
四十郎は、すぐに「撤退」とは決めつけなかった。
少弐から繰り返し教えられている。
見たことと、考えたことを混ぜるな。
だから四十郎はさらに様子を見た。
そして確信した。
羽柴軍は――
三木城の包囲を解こうとしている。
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四十郎が有馬へ向かったころ、少弐のもとには別の早馬が入っていた。
「丹波にございます」
少弐は受け取った書状を開く。
「丹波?」
「羽柴秀長勢に動きがございました」
弟の秀長が率いる別働隊が、丹波で攻勢に出ていた。
そしてついに、攻め続けていた城の一角を破った。
崩れた場所へ兵が殺到。
城内へ討ち入り、守備側との戦闘になったという。
城全体を落としたわけではない。
だが――
穴が開いた。
少弐は地図を持ってこさせた。
三木を見る。
そして丹波を見る。
「……これだな」
秀吉が三木を離れるには、十分すぎる理由だった。
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三木城は三月以来、七か月近く攻め続けても落ちなかった。
しかも六月末以降は事情が違う。
少弐は手を引いた。
四十郎にも米を運ばせていない。
市も通常の商いに戻った。
赤松氏も信長との裁定を守っている。
秀吉は七月から三か月以上、自分の好きなように三木城を攻めることができた。
それでも落ちなかった。
八月には包囲を縮め、兵を攻め寄せた。
九月には軍の疲れが目立ち始めた。
十月には再び包囲を主体としながら、夜襲などを織り交ぜて攻め方を変えた。
兵糧はある。
だが兵は疲れている。
そこへ丹波から、
「城壁を破り、城内へ入った」
という知らせである。
少弐は地図の丹波を指した。
「羽柴殿なら行く」
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やがて四十郎が有馬へ到着した。
「少弐殿!」
「三木だろ」
四十郎が驚いた。
「ご存じで?」
「丹波で秀長殿が城を破った」
「では……」
「たぶん、それだ」
四十郎は思わず顔をほころばせた。
叔父たちがいる三木城が助かる。
だが少弐はすぐ釘を刺した。
「まだ喜ぶな」
「……はい」
「本当に去るまで見る」
「はい」
「それから絶対に追うな」
四十郎が顔を上げる。
「羽柴勢を?」
「そうだ」
退却する敵を追撃する。
戦なら当然考えることだった。
だが今回は違う。
羽柴軍は敗走しているのではない。
別の戦場へ転進しようとしている。
ここで別所勢が城から出て背後を襲えば、秀吉が反転する理由を自分たちから作ってしまう。
しかも六月末の裁定まで危うくなる。
「叔父上たちにも、羽柴勢が完全に離れるまでは城から出ないよう伝えたいところだが……」
少弐はそこで止めた。
「いや。それも俺が言うことじゃない」
別所長治には別所長治の判断がある。
少弐はもう三木城攻めの当事者ではない。
「四十郎。お前は見るだけだ」
「承知いたしました」
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三木の羽柴本陣でも、決断はすでに下されていた。
秀吉は丹波からの知らせを何度も確認した。
弟の秀長が城の一角を破った。
兵が城内へ入った。
まだ落城には至っていない。
だからこそ――今だった。
援軍を送り込めば押し切れる可能性がある。
逆に時間を置けば、敵は破られた場所を塞ぎ、態勢を立て直す。
秀吉は三木の方角を見る。
七か月。
長かった。
ここまで攻めた以上、落としたい。
だが、三木はまだ硬い。
明日落ちる保証もない。
十日後に落ちる保証もない。
対して丹波では、弟が自ら突破口を作った。
「三木は畳む」
決断した。
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兵糧の心配はなかった。
これは大きかった。
長陣で兵は疲れている。
だが飢えてはいない。
米がある。
味噌も塩もある。
馬を動かす余力もある。
荷駄も残っている。
休ませながら進めば、丹波へ転進して再び戦える。
秀吉は三木を包囲していた兵をまとめ始めた。
長期間使った陣を畳む。
不要な物は処分する。
兵糧をまとめる。
荷駄を組み直す。
先行する部隊を出す。
そして三木を離れる前に、もう一つ仕事を片付けた。
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秀吉が書かせたのは、市についての書状だった。
宛先は、
赤松氏。
羽柴軍が三木城攻略のために行ってきた市・往来への軍事的な規制について、三木からの転進に伴い解除する。
羽柴軍が当地を離れる以上、これを維持する必要はない。
六月末の裁定を踏まえた、正式な通知だった。
秀吉は判を据えさせた。
そして使者に渡す。
「赤松へ届けよ」
「はっ」
それだけだった。
側近が少し迷った。
「兵庫津へは?」
秀吉が見る。
「何を送る」
「少弐殿にも、市の件を――」
「いらぬ」
短かった。
「裁定した相手は赤松じゃ」
「はっ」
政治的には何も間違っていない。
赤松氏が播磨守護として介入し、信長がその立場を認めて裁定した。
ならば市の規制解除を知らせる相手も赤松氏でよい。
少弐冬明へ知らせる義理はない。
そして秀吉自身も、知らせるつもりはなかった。
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羽柴軍の最後の部隊が動き始めた。
秀吉は馬へ乗った。
七か月攻めた三木城がある。
しかし秀吉が最後に長く見たのは、城ではなかった。
東。
兵庫津――神戸の方角だった。
春から何度も思い通りにならなかった場所。
四十郎を止めれば少弐が来る。
荷を壊せば弁償を迫られる。
市を規制すれば、その線の外側に新しい市ができる。
買い占めれば商品が増える。
禁止範囲を広げれば赤松が出てくる。
そして裁定が決まれば、少弐は突然姿を消した。
その後三か月以上。
今度は本当に、秀吉自身が三木城と向き合った。
それでも落ちなかった。
秀吉は神戸の方角を睨んだ。
怒鳴りもしなかった。
捨て台詞も吐かなかった。
ただ、その方向を覚えるように見た。
やがて馬首を返す。
「行くぞ」
行き先は――
丹波。
弟が開けた穴を、今度は兄が広げる。
羽柴軍が動き出した。
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数日後。
清盛館へ赤松氏から知らせが届いた。
羽柴秀吉より、市の規制解除について正式な書状が届いたという。
官兵衛がその写しを読む。
「なるほど」
渡辺が尋ねた。
「少弐殿にも届いておりますか」
「おそらく届いておりますまい」
実際、その通りだった。
有馬の少弐のところへ来たのは、秀吉からの書状ではない。
赤松側と清盛館からの報告だった。
少弐は一通り読んだ。
「規制解除か」
「はい」
「赤松殿に?」
「はい」
「俺には?」
「……何も」
少弐はしばらく黙った。
そして笑った。
「怒ってるなあ」
だが、それ以上は言わなかった。
むしろ少弐にとって重要なのは別の部分だった。
秀吉が最後まで赤松氏を正式な相手として扱った。
六月末の裁定で認められた、
播磨守護・赤松氏
という政治的な立場を、羽柴側も最後まで崩さなかったのである。
少弐は使者に言った。
「赤松殿には、承知したと返して」
「羽柴殿へは?」
少弐は少し考えた。
「何もいらない」
勝ったとも言わない。
礼も言わない。
皮肉も送らない。
秀吉が自分に書かなかったのなら、自分も書かない。
それでよかった。
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そして四十郎には、ようやく別の命令が出た。
「三木へ行ってこい」
「……よろしいので?」
「羽柴勢が完全に離れたことを確認してからな」
四十郎の顔が明るくなる。
「はい!」
「ただし兵を連れて勝者みたいに入るなよ」
「もちろんにございます」
「いつも通りでいい」
清盛館に奉公する商人として。
別所一族の末席として。
叔父たちに会いに行く。
今度は米を隠す必要もない。
偽荷駄を用意する必要もない。
正面から三木城へ行けばよかった。
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そのころ海では、対馬の遣新羅使船と瀬戸内の平安期の商船の調査が一段落し、海老屋の特注引揚船が次なる五島沖の古船へ向かっていた。
陸では七か月に及んだ戦が終わる。
海では、何百年も前に終わった航海が次々と姿を現す。
天正二年十月下旬。
三木城は落ちなかった。
別所長治が羽柴秀吉を撃破したわけでもない。
少弐冬明が秀吉を追い払ったわけでもない。
ただ、丹波で新しい戦機が生まれた。
落ちない城を攻め続けるより、弟が開けた城壁の穴へ兵を入れる。
秀吉はそう判断した。
そして去り際――
三木城ではなく神戸を睨んだ。
市の規制解除は赤松氏へ送った。
少弐冬明には、一文字も送らなかった。
少弐もまた、秀吉へは一文字も返さなかった。
そうして羽柴秀吉は三木を離れ、
疲れてはいるが兵糧を残した軍勢を率いて、丹波へ転進していった。




