九月――逃げる兵、閉じる門
天正二年九月。
八月まで三木城へ圧力をかけ続けていた羽柴秀吉の攻勢が、わずかに鈍った。
兵糧が尽きたわけではない。
むしろ羽柴勢には、まだ食えるだけの蓄えがあった。
問題は別のところにあった。
人だった。
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三木攻めは、すでに半年近く続いている。
しかも、その半年すべてが普通の城攻めだったわけではない。
春には四十郎が荷を運ぶ。
止めれば少弐冬明が出てくる。
市を規制すれば抗議される。
規制範囲を変えれば、また書状が来る。
ようやく戦へ集中できると思えば、赤松氏が播磨守護として介入し、信長の裁定となった。
その間、羽柴の兵たちは妙な日常を覚えてしまった。
市があった。
米を買えた。
味噌を買えた。
酒もあった。
草履もあった。
紙もあった。
筆を借りて、故郷へ便りを書くことさえできた。
長い戦陣のただ中に、ほんのわずかな日常が入り込んでいた。
それが消えれば耐えられたのかもしれない。
しかし市は裁定後も通常の商いとして残っている。
戦場にいるのに、故郷を思い出すものが目に入る。
そして秋が近づいた。
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四十郎が有馬へ来たのは、九月上旬だった。
「少弐殿」
「三木か」
「はい」
いつものように記録係を呼ぶ。
だが、その日の報告は陣の位置ではなかった。
「羽柴勢の攻めが、少し鈍ったように見えます」
少弐はすぐには喜ばなかった。
「理由は?」
「分かりませぬ。ただ――」
四十郎が声を落とした。
「兵が逃げているという話がございます」
少弐の表情が変わった。
「見たのか?」
「直接は。ただ播磨の者から複数、同じ話を聞きました」
「では伝聞と書け」
記録係が書く。
羽柴陣より脱走者ありとの風聞。複数。未確認。
四十郎が続けた。
「とくに徴発された者たちの中に、夜になると消える者がいるとか」
少弐は黙った。
市で紙を買った足軽を思い出した。
故郷の子へ便りを書くと言っていた男。
「……里心か」
「そう申す者もおります」
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少弐は立ち上がった。
四十郎はてっきり三木について何か命じると思った。
違った。
「神戸へ使いを出す」
「何を?」
「東門を締めろ」
四十郎が驚く。
「東を?」
「西もだ」
少弐は矢継ぎ早に命じた。
兵庫津へ通じる門の警備を強化する。
六甲方面については、少弐虎衆が築いていた砦へ人数を詰めさせる。
山道も警戒する。
ただし――
「絶対に戦うな」
そこを強調した。
「脱走兵が来ても斬るな」
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少弐が恐れたのは、羽柴の脱走兵そのものではなかった。
脱走兵が少弐領へ逃げ込むことだった。
もし羽柴兵が兵庫津へ入り、
「少弐殿に匿ってもらった」
などという話になれば最悪だった。
さらに追手が来る。
羽柴兵が兵庫津で逃亡兵を斬る。
少弐側の兵が止める。
揉める。
誰かが刀を抜く。
一人死ぬ。
それだけで、六月末から守り続けてきた裁定と停戦が崩れかねない。
「一兵たりとも勝手に入れるな」
少弐は命じた。
だが同時に、
「殺すな」
とも命じた。
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清盛館へ届いた沙汰は、かなり細かかった。
羽柴勢と思われる脱走兵を発見した場合、武器を捨てるよう求める。
抵抗しない者には危害を加えない。
捕縛後も殴打、略奪を禁じる。
飯と水を与える。
怪我人なら治療する。
そして身元を確認した上で――
羽柴方へ返す。
須知が書状を読みながら呟いた。
「厚遇するので?」
渡辺が答える。
「厚遇せよ、とある」
「なぜ」
「死なせないためだろう」
その通りだった。
少弐は自領で羽柴兵を殺したくなかった。
同時に、羽柴兵にも脱走兵を追って勝手に領内へ入ってほしくない。
だから、
捕まえるのはこちら。返すのもこちら。
という形にする。
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少弐はさらに触れを出させた。
羽柴勢から逃亡してきた者を、商人・百姓・寺社が勝手に匿ってはならない。
だが捕らえて私刑にしてもならない。
金品を奪うことも禁ずる。
見つけたら清盛館、最寄りの番所、六甲の砦へ知らせる。
「敵兵だから何をしてもいい」という状態を作らない。
少弐は軍規の問題として処理した。
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そして最後に、羽柴秀吉へ書状を送った。
以前のような挑発的な書状ではない。
官兵衛にも文面を確認させた。
内容は簡潔だった。
羽柴陣から逃亡する兵がいるとの風聞を聞いたこと。
少弐方にはこれを受け入れたり、召し抱えたりする意思はないこと。
少弐領へ入った場合には武装を解かせ、保護した上で羽柴方へ返還すること。
その代わり――
羽柴方も逃亡兵を追って少弐領へ無断で入らないこと。
引き渡し場所を決める。
双方ともそこで武装兵を必要以上に近づけない。
逃亡兵の処罰については、引き渡した後の羽柴方の軍規に委ねる。
少弐側は関与しない。
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書状を読んだ秀吉は、しばらく黙っていた。
腹立たしい話だった。
脱走兵が出ている。
それを少弐に知られた。
しかも少弐は――利用しない。
寝返らせない。
情報を聞き出して使うとも書いていない。
召し抱えもしない。
飯を食わせて返すという。
そして、
「そちらも我が領へ追ってくるな」
と先に境界を引いてきた。
秀吉には拒む理由がほとんどなかった。
むしろ脱走兵が兵庫津へ流れ込み、少弐側と羽柴の追手が衝突する方が困る。
約定は成立した。
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数日後。
六甲の砦へ最初の一人が現れた。
泥だらけだった。
武器を持っている。
少弐虎衆の兵が進路を塞いだ。
男が身構える。
だが、槍は突き出されなかった。
「武器を置け」
男は動かない。
「ここから先へは入れぬ」
「……殺すのか」
「殺さぬ」
男が怪訝な顔をした。
「では通せ」
「それもできぬ」
「何だそれは」
「飯は出す」
男はますます分からなくなった。
「食ったら?」
「羽柴殿へ帰す」
長い沈黙。
男はとうとう刀を地面へ置いた。
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有馬へ、その報告が届いた。
四十郎もいた。
「一人捕らえたそうです」
「怪我は?」
「軽いものだけ」
「飯は?」
「食わせたとのこと」
「返した?」
「約定の場所で羽柴方へ」
少弐はようやく頷いた。
「それでいい」
四十郎が少し複雑な顔をした。
「叔父上を攻めている兵です」
「分かってる」
「それでも助けるので?」
少弐は首を振った。
「助けてるんじゃない」
少し考え、言い直した。
「いや、命は助けてるな」
そして続けた。
「でも俺が欲しいのは羽柴の脱走兵じゃない」
六月末に決めたことは変わっていない。
羽柴秀吉から、少弐冬明の影を消す。
脱走兵まで利用し始めれば、また秀吉の戦の中へ少弐が戻ってしまう。
だから受け取らない。
殺さない。
返す。
少弐は四十郎の報告書の最後に書かせた。
九月――羽柴勢、攻勢やや鈍る。
陣中より逃亡者ありとの風聞。
そして、その下にもう一行。
少弐方、これを利用せず。
戦場から自分の影を消すという六月の決定は、九月になって初めて本当の意味を持ち始めていた。




