八月――海底の古船と、縮まる包囲
天正二年八月。
播磨では、羽柴秀吉が三木城を攻めていた。
だが少弐冬明が動かしていたものすべてが、戦のために存在しているわけではなかった。
三木で軍勢が動き、赤松と織田の裁定が下り、四十郎が羽柴勢を観察している間にも――海では、以前から始めていた仕事が淡々と進んでいた。
対馬から、その知らせが届いた。
古い船が見つかった。
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最初の報告を読んだ少弐は、有馬で身を起こした。
「どのくらい古い?」
使者は首を振る。
「確かなことは、まだ」
ただ、引き揚げられた破片や周辺から確認された品を見る限り、かなり古い。
そして現地では一つの可能性が囁かれていた。
遣新羅使に関係する船ではないか。
少弐の顔つきが変わった。
以前、比叡山から「人々が仏心を取り戻すような神々しいもの」を求められたことから始まった古代航路の調査。
遣隋使。
遣唐使。
鑑真。
義浄。
仏教僧たちが渡った海。
難破した船。
古代の交易。
最初は文献と伝承を追っていたものが、とうとう海底から姿を現し始めた。
少弐はすぐ命じた。
「壊すな」
何が積まれているかより先に、それだった。
「急いで宝を取ろうとするな。船そのものを記録してくれ」
海老屋へ特注していた引揚船が、ここで本格的に働くことになった。
潜る者。
綱を扱う者。
位置を記録する者。
引き上げた物を洗い、保管する者。
少弐は可能な限り、
どこから何が出たのか分かる状態で引き揚げる
よう求めた。
戦とは関係がない。
秀吉が三木を攻めようが、赤松が書状を書こうが、海底の船は逃げない。
だから急がない。
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ところが、その最中にもう一つ知らせが来た。
今度は瀬戸内だった。
「また船?」
「はい」
「いつの?」
「こちらも断定はできませぬが……平安の頃ではないか、と」
少弐は思わず笑った。
「どうして同時に見つかるんだ」
問題が一つあった。
引揚船は――一隻しかない。
海老屋に特注させた船である。
どちらも同時には調査できない。
少弐は少し考えた。
「順番だな」
まず対馬。
現場を荒らさないよう瀬戸内側には印を置き、場所を詳しく記録する。
可能なら周辺の船衆に監視を頼む。
勝手に潜って品を持ち去らせない。
対馬の調査に一区切りがつけば、引揚船を瀬戸内へ回す。
「海の底まで順番待ちか」
少弐は苦笑した。
三木城を巡って何千という兵が動いている同じ夏。
少弐の商いでは、
千年近く前に沈んだ船を、どちらから先に引き揚げるか
という相談が真剣に行われていた。
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一方――三木。
こちらでは時間の流れ方がまるで違った。
六月末の裁定以降、羽柴秀吉を悩ませていた少弐の介入は消えている。
市は普通に商っている。
三木へ向かう少弐の荷駄もない。
四十郎も遠巻きに見るだけ。
そして秀吉には兵糧があった。
十分にある。
かつて少弐の市から買い入れた物資も無駄にはならなかった。
通常の補給も続く。
周辺の市も、裁定に従う限り利用できる。
だから秀吉は焦って撤退する必要がない。
「詰めよ」
命令が出た。
包囲の輪が、少し縮まった。
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ただ囲んで待つだけではない。
兵を出す。
城方の防御を探る。
押せるところでは押す。
退くべきところでは退く。
そして兵が疲れれば交替させる。
食わせる。
休ませる。
また前へ出す。
秀吉自身も陣を回った。
「何をしておる!」
声が飛ぶ。
「城は目の前ぞ!」
疲れた兵を叱咤する。
だが無闇に死なせるわけではない。
長期戦ができるだけの兵糧があるからこそ、圧力を途切れさせない。
三木城から見れば、それが嫌だった。
昨日より近い。
数日前より羽柴の旗が近い。
夜になっても消えない火が増えている。
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四十郎は、それを見ていた。
以前とは違った。
少弐が市を開いていた頃、羽柴勢の目は散っていた。
荷駄を見る。
市を見る。
商人を見る。
四十郎を見る。
少弐本人が現れれば、さらにそちらへ人を取られる。
今は――違う。
羽柴勢の目が三木城だけを見ている。
四十郎は有馬へ向かった。
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数日後。
「少弐殿」
「来たか」
少弐の前には、対馬の古船についての報告が広げられていた。
四十郎は一瞬それを見る。
「……船でございますか」
「対馬で見つかった」
「羽柴ではなく?」
「羽柴ではない」
少弐は紙を脇へ置いた。
「三木は?」
四十郎の表情で、おおよそ分かった。
「輪が縮んでおります」
少弐も真顔になる。
「どの辺まで?」
四十郎は地図を使った。
以前見た羽柴の陣。
今の陣。
増えた場所。
兵が頻繁に動く場所。
そして、
「攻め寄せることも増えました」
「城は?」
「まだ持っております」
「城内を見た?」
「いいえ」
「なら?」
四十郎は言い直した。
「外から見る限り、大きく崩された様子はございません」
少弐が頷く。
「それでいい」
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記録係が書く。
八月。
羽柴勢、三木城包囲をさらに縮小。
兵糧に余裕あり。
包囲のみならず、攻撃を繰り返す。
少弐は過去の記録と並べた。
山城。
夢野。
若狭。
丹波。
三木。
「裁定から一月か」
「はい」
四十郎が答える。
「速いな」
少弐は羽柴勢の位置を見た。
六月までとは違う。
これは少弐と争っている秀吉ではない。
本来の敵だけを見ている秀吉だった。
「怖い?」
四十郎が尋ねる。
少弐は少し考えた。
「怖いよ」
素直に答えた。
「だから記録してる」
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四十郎には、改めて同じ命令を出した。
「米は持っていくな」
「はい」
「叔父上に会おうとして無茶もするな」
「承知しております」
「見るだけ」
「はい」
「羽柴が何をするか、よく見ておいてくれ」
四十郎は頭を下げた。
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その日の夕方。
少弐は再び対馬からの報告を開いた。
千年近く前に海を渡ったかもしれない船。
一方、目の前の地図には、今まさに播磨を西へ進もうとしている羽柴秀吉。
瀬戸内では、平安時代らしい商船が海底に眠っている。
三木では、羽柴の兵が城壁へ迫っている。
一つの時代が海底から掘り起こされ、
もう一つの時代が、目の前で作られている。
少弐は二種類の記録を並べた。
「どっちも残しておこう」
戦だけが歴史ではない。
だが――戦もまた歴史だった。
天正二年八月。
対馬では古代の航海が海底から姿を現し始め、瀬戸内では平安の商船が順番を待ち、三木では羽柴秀吉が潤沢な兵糧を背に、包囲の輪を一段ずつ縮めていた。




