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有馬の夏――羽柴秀吉という記録

天正二年七月。


六月末に信長と赤松氏の裁定が下ってから、少弐冬明は三木から徹底して自分の影を消していた。


三木城への米は止めた。


偽荷駄も止めた。


市は適正な値で普通に商う。


喜捨や炊き出しも、裁定に触れそうなら現場で羽柴勢と争わず、その範囲内で行う。


少弐虎衆をはじめ兵庫津の兵にも、羽柴勢への挑発を厳禁した。


そして本人は有馬にいた。


表向きは――休養である。


実際、それも嘘ではなかった。


雲丸と過ごし、湯に浸かり、三木の騒ぎからしばらく距離を置く。


ただし少弐は、三木を見なくなったわけではなかった。


見る場所を変えたのである。



---


数日おきではない。


不自然にならない程度に間を空けて、四十郎が有馬へやってきた。


「少弐殿」


「おう。三木は?」


四十郎は以前のように荷駄を引いてはいない。


持ってくるのは記憶と簡単な書付だけだった。


「羽柴勢、裁定後から陣を詰めております」


「やっぱりか」


「以前より巡回が増えました。こちら側の道にも――」


少弐が止めた。


「待て」


部屋の隅にいた者たちへ声をかける。


「聞いてくれ」


紙が広げられた。


墨が磨られる。


少弐が有馬へ連れてきた供回りの中には、記録を取る者もいた。


四十郎が話し始める。


どの辺りで羽柴兵を見たか。


以前より旗が増えた場所はどこか。


逆に兵が減ったところはあるか。


荷駄はどちらから来るか。


どの道を頻繁に使うか。


何日ほど同じ場所にいるか。


少弐自身は、細かな軍事判断をその場で下さなかった。


「見たことだけでいい」


そう四十郎に念を押した。


「何を考えているかは、こっちで考える」



---


やがて少弐は、別の資料まで持ち出した。


「これも並べよう」


羽柴秀吉が山城方面へ動き始めた頃の記録。


夢野・鵯越方面で少弐自身が秀吉と対峙した時の記録。


若狭から西へ進んだ時期。


丹波での動き。


そして今年三月、播磨へ入った時の記録。


ばらばらに保管されていた書付を、一つずつ時系列に並べていった。


少弐は最初に大きく書かせた。


羽柴秀吉。


その下に年月を置く。


「山城の時から始めよう」



---


いつ、動いたか。


どこから入ったか。


どこで止まったか。


どのくらい滞在したか。


次にどちらへ向かったか。


軍勢の規模は正確に分からなくても、


増えたか、減ったか。


それなら記録できる。


兵の装備も同じだった。


長槍が多かった。


鉄砲がどこに見えた。


荷駄がどの程度ついていた。


馬が多かった時と少なかった時。


陣笠。


旗指物。


雨天時の装備。


道具を運ぶ人夫。


少弐は数字を無理に決めさせなかった。


「分からないものは分からないと書け」


「よろしいので?」


「嘘の数字を書くよりいい」


そして、


実見。


伝聞。


推測。


この三つをなるべく分けさせた。


「四十郎が見たなら実見」


「はい」


「播磨の百姓から聞いたなら伝聞」


「はい」


「官兵衛が『おそらくこうだろう』と言ったなら推測」


少弐は紙を指で叩いた。


「混ぜるな」



---


四十郎も次第に報告の仕方を覚えた。


最初の頃は、


「羽柴勢が大勢おりました」


だった。


少弐が尋ねる。


「大勢って?」


「……大勢でございます」


「前回より?」


「多いです」


「倍?」


「そこまでは」


「ではそう言え」


次の報告では変わった。


「前回見た時より、明らかに増えております。ただ倍まではないと思います」


「よし」


「旗は三つほど新しいものを見ました」


「どこの旗か分かる?」


「一つは分かりませぬ」


「それでいい」


少弐は記録係を見る。


「不明、と」


「はい」


だんだんと、羽柴軍の姿が紙の上に浮かんできた。



---


ある日は、四十郎が泥だらけで有馬へ来た。


「今日は何だ」


「雨でございます」


「見れば分かる」


「羽柴勢も雨でございました」


少弐が笑った。


だが四十郎は真面目だった。


「そこで気づきました」


雨の日でも動いている部隊。


動かない部隊。


荷駄が避ける道。


泥濘になる場所。


少弐はすぐ地図を持ってこさせた。


「ここ?」


「もう少し西です」


「この道は?」


「荷車が減ります」


「晴れたら?」


「戻ります」


記録係が書き込む。


少弐はそれを眺めた。


「こういうのが欲しかった」



---


別の日。


少弐は過去の記録を読み返していた。


山城。


夢野。


播磨。


並べてみると、同じ秀吉でも動き方が違う。


少弐はそこに印を付けた。


「ここでは急いでいる」


次を見る。


「ここでは止まってる」


さらに、


「ここは人を分けた」


一人が尋ねる。


「何か分かりましたか」


「まだ分からん」


少弐は素直に答えた。


「だから集めてる」


目的は秀吉の攻略法を完成させることではない。


羽柴秀吉という武将が、これまで何をしたのかを残すこと。


それだけでも十分だった。



---


そして、この作業には意外な効果があった。


少弐自身が冷静になったのである。


夢野で対峙した時には、目の前に秀吉がいた。


三木では四十郎を巡って感情的にもなった。


市では秀吉と意地の張り合いになった。


しかし有馬で紙に年月を書いて並べてみると違った。


敵ではなく、一人の武将として見えてくる。


「……よく動くな、この人」


少弐が呟いた。


四十郎が不満そうに言う。


「叔父上を攻めている者でございます」


「分かってる」


少弐は紙を見た。


「だから知らないといけない」


そして別の紙を出す。


山城方面。


夢野・兵庫津方面。


若狭・丹波方面。


播磨・三木方面。


それぞれを時系列で繋いでいく。


いつ。


どこから。


どこへ。


何日。


どのような軍勢。


どのような補給。


何をした後に次へ移ったか。


少弐はそれを一冊にまとめさせ始めた。



---


七月半ば。


四十郎がまた有馬へ来た。


「攻勢が強まっております」


少弐の顔から笑みが消えた。


「どのくらい?」


四十郎が説明する。


裁定前とは違う。


市へ割いていた注意が減った。


商人との揉め事もない。


羽柴勢は明らかに三木城そのものへ意識を集中させ始めている。


少弐は最後まで聞いた。


「城は?」


「まだ大丈夫かと」


「『かと』?」


四十郎は考え直した。


「外から見た限り、崩れた様子はございません。城内は分かりませぬ」


少弐が頷いた。


「それでいい」


以前なら、ここで米を送ることを考えただろう。


だが今は違う。


「何もしない」


四十郎も分かっていた。


「はい」


「また見てきてくれ」


「承知いたしました」


「無理するなよ」



---


四十郎が帰った後、少弐は新しい記録を加えさせた。


六月末――裁定成立。


少弐方、兵糧搬入停止。


そして、


七月――羽柴勢、三木への攻勢を強める。


少弐はその一文をしばらく見ていた。


「これでいい」


羽柴秀吉から少弐の影は消えつつある。


だからこそ、今から記録される秀吉の動きは価値がある。


少弐に邪魔された秀吉ではない。


自分の判断で三木を攻める羽柴秀吉そのものが見えるからだった。


その夏、有馬では雲丸の声と湯煙の傍らで、一冊の記録が少しずつ厚くなっていった。


山城から夢野へ。


若狭から丹波へ。


そして播磨・三木へ。


少弐冬明は戦場から退きながら――


羽柴秀吉がいつ、どこを通り、何を率い、どのように戦ったのかを、一つの人物記録として初めて整理し始めていた。

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