影を消せ――裁定後の少弐
天正二年六月末。
信長と赤松氏の間で裁定が定まったその日、少弐冬明は有馬から立て続けに書状を出した。
最初の一通は、四十郎、須知、渡辺ら三木周辺で動いてきた者たちへ。
これまでの指示より、はるかに厳しかった。
少弐は冒頭から命じた。
――羽柴秀吉の前から、我らの影を消せ。
市は裁定に従え。
三木への米は一粒たりとも運ぶな。
偽荷駄も止める。
羽柴勢を試すような振る舞いも止める。
喜捨や炊き出しについて異議が出れば、現場で理屈をこねて争わず、裁定の範囲内で行う。
羽柴兵個人へ物を与えることも、もうしない。
そして少弐は、その理由をはっきり書いた。
これは羽柴への遠慮ではない。
赤松則房が播磨守護として立ち、信長と渡り合った末に得た裁定だからである。
ここで少弐側が裁定の穴を探して再び三木を援ければ、
「赤松は結局、小田が担いだだけの神輿だった」
と言われる。
それではならない。
少弐は書いた。
我らが裁定を破れば、赤松殿の格を落とす。
自ら担ぎ上げた神輿を、自ら泥に落とすような真似は決して許さぬ。
---
そして、もう一つ。
少弐自身は武器を持って戦うつもりはなかった。
だが兵庫津には兵がいる。
少弐虎衆。
港の警備兵。
西国艦隊の水兵。
須磨方面の者。
少弐はそれぞれに軍規を引き締めるよう沙汰した。
羽柴勢を挑発するな。
三木周辺へ無断で近づくな。
赤松・羽柴双方の領民、商人に乱暴を働くな。
羽柴兵と酒席で争うことすら慎め。
まして、
「三木へ勝手に米を持っていけば喜ばれるだろう」
などという者が出ることを、少弐は最も恐れた。
善意でも駄目だった。
裁定が出た以上、それは軍令違反である。
---
須知が書状を読み終える。
「ずいぶん厳しい」
渡辺が頷いた。
「昨日までと別人のようだ」
四十郎だけは黙っていた。
三木には叔父たちがいる。
その四十郎に対しても、少弐は例外を認めなかった。
ただ最後に、
見ることは止めぬ。
とある。
播磨の者だけを使い、三木周辺を見てよい。
羽柴勢の兵の動き。
新しい陣。
城への攻勢。
ただし情報を取るために羽柴勢へ接触してはならない。
見て、帰る。
それだけ。
四十郎は書状を畳んだ。
「……承知した」
---
そしてもう一通。
こちらは清盛館の黒田官兵衛宛だった。
官兵衛は読み進めるうちに、少弐の意図を察した。
最後には小さく笑った。
「これはまた、厳しいことを仰せになる」
少弐からの依頼は奇妙だった。
羽柴秀吉から、三木城を落とせなかった時の言い訳を消してほしい。
官兵衛はもう一度読む。
少弐は、秀吉を妨害せよとは一言も書いていない。
むしろ逆だった。
裁定後の市について、羽柴方から疑義が出ないよう規則を整える。
兵庫津の商人へ裁定内容を周知する。
三木へ通じる軍路には商人を近づけない。
市へ羽柴兵が来ても普通の客として扱う。
価格も通常に戻す。
兵糧搬入と誤認されそうな大荷駄については、経路を事前に確認させる。
官兵衛はそこまで読んで、理解した。
「なるほど」
少弐は――
秀吉を自由にしようとしている。
---
数日後。
清盛館から各所へ沙汰が出された。
商人たちにも伝えられる。
「三木城へは入るな」
「羽柴の軍路を横切るな」
「止められたら争うな」
「裁定に不服があれば清盛館へ届けよ」
「現場で勝手に羽柴方と交渉するな」
さらには羽柴方へも書状が送られた。
内容は丁寧だった。
信長公の裁定を尊重し、少弐方は三木城への兵糧搬入を停止した。
通常の市についても裁定に従って運営する。
もし少弐方の商人・兵・奉公人が裁定を破った場合には、清盛館へ知らせてほしい。
こちらで処罰する。
羽柴方に対しても、裁定で認められた通常の商売については従前どおり利用して構わない。
官兵衛は最後に一文を加えた。
羽柴殿におかれては、心置きなく三木御攻略に専念されたし。
---
その書状を読んだ秀吉は――笑わなかった。
もう一度読んだ。
「……官兵衛め」
側近が尋ねる。
「何か問題が?」
「逆だ」
問題がない。
だから腹が立つ。
市はもう邪魔をしない。
少弐は有馬にいる。
四十郎も荷駄を運ばない。
少弐虎衆も動かない。
赤松も裁定を守っている。
商人との揉め事も清盛館が処理するという。
何もない。
秀吉が三木城を落とすために邪魔だったものを、少弐側が自分たちで片付けてしまった。
そして最後に、
心置きなく三木御攻略に専念されたし。
「……言われずともやるわ」
秀吉は書状を畳んだ。
だが意味は分かっていた。
ここから三木が落ちなければ――
もう少弐のせいにはできない。
---
清盛館でも、渡辺が同じことに気づいた。
「官兵衛殿」
「何です」
「これは、羽柴殿を助けているようにも見えます」
「助けております」
四十郎が驚いて官兵衛を見る。
官兵衛は平然としていた。
「少弐殿は羽柴殿に勝ちたいのではない」
三木の地図を見る。
「羽柴殿自身の力で、三木を攻めてもらいたいのです」
「それで叔父上の城が落ちたら!」
四十郎が思わず声を上げた。
官兵衛は四十郎を見る。
「だからこそ、あなたが見ている」
攻勢が強まりすぎれば分かる。
三木が危うくなれば分かる。
だが今は動かない。
裁定を守る。
「赤松殿を守護として立てた以上、我らが最初にその決定を破ってはならぬ」
四十郎は唇を噛み、やがて頷いた。
---
そして有馬。
少弐のもとへ、官兵衛から返書が届いた。
指示した沙汰をすべて実行したこと。
羽柴方にも書状を送ったこと。
三木への物流を停止したこと。
軍規を改めて確認したこと。
少弐は最後まで読む。
「これでいい」
膝の上には雲丸がいた。
少弐は武器を持っていない。
兵庫津にも戻らない。
三木へも行かない。
羽柴秀吉へ書状すら直接送らない。
少弐冬明という存在そのものを、三木城攻めから消した。
残ったのは――
三木城。
別所長治。
そして羽柴秀吉。
少弐は官兵衛から届いた書状を畳んだ。
「さあ」
誰に言うでもなく呟いた。
「これで三木が落ちなかったら――」
少し考えて、そこで言葉を止めた。
言う必要はなかった。
官兵衛がすでに、そのための言い訳を一つずつ消している。
六月末。
数か月にわたって三木の周囲を飛び回っていた少弐の影は、突然消えた。
そしてその静けさこそが――
羽柴秀吉にとって、これまでで最も重い圧力になり始めていた。




