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筆を置いて、有馬へ――少弐が引いた日

天正二年六月。


羽柴の足軽が、少弐の喜捨した草履を受け取った。


別の者は手拭いを受け取った。


酒を受け取る者まで出た。


少弐冬明は、その日の夜まで何も言わなかった。


清盛館へ戻ってからも、市の帳面を眺めていた。


草履。


酒。


手拭い。


膏薬。


長陣の兵が何を欲しがるのか。


何を並べれば立ち止まるのか。


それが少しずつ分かってきた。


だからこそ――少弐は帳面を閉じた。


「ここまでにしよう」


四十郎が顔を上げる。


「何をでございます?」


「羽柴の兵に物を配るのはやめる」


「なぜです。上手くいき始めたところでは」


「上手くいったからだ」


少弐は少し考えてから言った。


「これ以上やったら、商いでも喜捨でもなくなる」


須知も黙って聞いていた。


「羽柴殿の兵をこちらへ靡かせている、と言われても仕方なくなる」


軍規へ触れ始めている。


そこは少弐にも分かった。


秀吉を三木へ縛りたい。


だが、停戦を壊したいわけではない。


「だから市は戻す」


「畳むので?」


「いや。普通に商う」



---


翌日から、市の商品には再び適正な値が付いた。


米。


塩。


味噌。


酒。


草履。


鍋。


針。


糸。


手拭い。


もう羽柴勢に買わせるため、極端に値を下げることもしない。


羽柴兵が買いたければ買えばよい。


近隣の百姓が買ってもよい。


別所の者が買えるなら、それも商人の仕事だった。


その代わり、少弐は少し変わった商品を増やした。


梅干し。


漬物。


干魚。


餅。


炒り豆。


干し柿。


土地によって多少作り方の違う味噌。


どれも珍品ではない。


むしろ逆だった。


どこかで食べたことのある味。


長く家を離れた者ほど、妙に目が止まる品だった。



---


そして市の一角に、紙が並んだ。


高級な料紙ではない。


普段使いの紙だった。


その横には筆と硯。


四十郎が尋ねた。


「これも売るので?」


「紙は売る」


「筆は?」


「貸す」


「硯も?」


「貸す」


「墨は?」


「使わせろ」


四十郎が首を傾げた。


「儲かりませぬぞ」


「紙が売れる」


「それだけで?」


「いいだろ」


やがて、一人の羽柴足軽が立ち止まった。


紙を見る。


筆を見る。


しばらく迷ってから紙を一枚買った。


「筆は?」


商人が尋ねる。


「いくらだ」


「使うだけなら銭はいらんそうです」


「……本当か」


男は座った。


墨を磨る。


だが筆を持つとなかなか書き始めない。


隣の兵が笑った。


「誰に書く」


「うるさい」


「女か」


「違う」


「では母御か」


男はしばらく黙っていた。


「倅だ」


笑っていた男が黙った。


「儂が出てきたころには、まだ小さかった」


そしてようやく筆が動いた。



---


その様子を、少弐も遠くから見ていた。


自分にも幼い息子がいる。


有馬にいる雲丸。


家を出る時には何とも思わなかったことが、以前とは違って見えるようになっていた。


羽柴の兵を三木へ一日置けば。


それは秀吉を一日拘束したということでもある。


だが同時に、


この男が息子のところへ帰る日を、一日遅らせたということでもある。


少弐はしばらく足軽の背中を見ていた。


やがて四十郎を呼んだ。


「四十郎」


「はい」


「喜捨も変える」



---


禁止区域で物を直接配ることは、やめた。


代わりに――


炊き出しを始めた。


大鍋を据える。


粥。


味噌汁。


日によっては芋や野菜を入れる。


近隣で戦のため難儀している者に、その場で食べてもらう。


持ち帰る荷物は渡さない。


三木城へ運べる物資にもならない。


羽柴側から、


「兵糧を流している」


と言われる余地をできるだけ減らした。


もちろん羽柴兵が来れば揉める。


「ここは禁止区域だ!」


「売っておりません」


「物を配るな!」


「持って帰れる物は渡しておりません」


「ではこれは何だ!」


「飯です」


「見れば分かる!」


相変わらずだった。


だが少弐本人は、もうそこにはいなかった。



---


清盛館で少弐は三人を呼んだ。


四十郎。


須知。


そして渡辺。


「後は頼む」


四十郎が驚いた。


「少弐殿は?」


「有馬へ行く」


「今ですか?」


「今だからだ」


裁定は始まっている。


赤松も動いた。


信長の使者も動いている。


ここで少弐本人が毎日のように市へ姿を見せれば、


小田側が意図的に騒乱を拡大している


という材料を秀吉に与える。


だから引く。


しかも、こっそりではない。


「供を多めに連れていく」


須知が理解した。


「見せるのでございますな」


「うん」


少弐冬明は三木から離れた。


そう誰にでも分かるようにする。


護衛。


供回り。


荷物。


堂々と兵庫津を出る。


行き先も隠さない。


有馬温泉。


休養である。


官兵衛だけは、当然のように清盛館に残った。



---


出立の日。


少弐の一行は妙に目立った。


「少弐殿が有馬へ?」


「湯治らしい」


「三木は?」


「知らん。四十郎殿らに任せたそうだ」


当然、その噂は羽柴方にも届いた。


秀吉も報告を受けた。


「少弐が?」


「有馬へ向かったとのこと」


「兵は」


「供回りを連れ、隠す様子もございません」


秀吉は疑った。


「官兵衛は?」


「兵庫津におります」


「……そうか」


秀吉はしばらく考えた。


少弐が消えた。


だが市は残った。


普通に商売している。


紙も売っている。


飯も炊いている。


三木城もまだ落ちない。


赤松との裁定も続いている。


奇妙だった。


少弐本人がいなくなったのに、


少弐が作った仕組みだけが動き続けている。



---


一方、有馬。


少弐はようやく刀を置いた。


湯に浸かる。


三木の地図もない。


羽柴の触れもない。


市の帳面も持ってこなかった。


そして湯から上がれば――雲丸がいる。


少弐は幼い息子を抱き上げた。


市で紙を買った、あの足軽のことを思い出した。


「……そうだよな」


雲丸には意味が分からない。


少弐の指を握る。


少弐はその小さな手を見た。


秀吉を三木へ縛る。


それは必要なことだった。


今でもそう思う。


だが戦とは、城と兵の数だけではない。


帰れない者がいる。


待っている者がいる。


少弐は雲丸を抱いたまま、しばらく何も言わなかった。


三木ではなお、奇妙な戦が続いている。


しかし少弐冬明はここで一度、自ら盤面から手を離した。


市は商人へ。

施しは炊き出しへ。

争いは赤松と信長の裁定へ。

そして自分は――家族のいる有馬へ。


三木城攻めが始まって以来、少弐が初めて選んだ、


「何もしない」という一手だった。

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