足軽への施し――長引く裁定、崩れる境目
天正二年六月。
裁定は、思った以上に長引いた。
もっとも、少弐冬明が赤松則房に頼んで引き延ばさせているわけではない。
そんな必要すらなかった。
単純に遠いのである。
安土から使者が出る。
赤松側へ話を聞く。
羽柴秀吉の言い分も確かめる。
山城か大和の寺で双方の使者を合わせる。
さらに厄介なのは、赤松氏が途中からこの争いへ入ってきたことだった。
最初は羽柴と別所の戦だった。
そこへ四十郎が入り、少弐が入り、市の問題となり、最後に播磨守護を名乗る赤松が入った。
「そりゃ、すぐには決まらないか」
清盛館で少弐が言った。
官兵衛が頷く。
「信長公も、どこから裁けばよいのか整理するだけで骨でしょう」
「では待とう」
「何もせず?」
「いや」
少弐は笑った。
「待っている間に試したいことがある」
官兵衛は、また何か始まったという顔をした。
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翌日から、市に並ぶ品が変わった。
米、味噌、塩はもちろんある。
だが少弐は、それとは別に長陣で兵が欲しくなるものを意識して増やした。
草履。
足袋。
手拭い。
笠。
簡単な雨具。
針と糸。
膏薬。
傷薬。
油。
干魚。
漬物。
酒。
鍋。
小さな椀。
そして時には甘いものまで混ぜた。
一日目。
草履を増やす。
羽柴兵がちらちら見る。
二日目。
酒を増やす。
立ち止まる者が増える。
三日目。
膏薬と手拭い。
今度は露骨に値段を聞きに来る。
四日目。
酒を減らし、干魚と漬物を増やす。
五日目。
草履、針、手拭い。
少弐は毎日少しずつ品を変えた。
そして記録した。
「今日は?」
「草履がよく見られております」
「酒は?」
「昨日ほどでは」
「膏薬は?」
「足軽らしい者が何度か値を聞いております」
「なるほど」
何が売れるかを調べているのではない。
何が羽柴兵を市へ引き寄せるのかを調べていた。
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やがて、少弐は値段をさらに下げた。
羽柴の足軽が草履を手に取った。
「安いな」
「長く陣を張っておられるのでしょう」
商人が答える。
「まあな」
自分の足元を見る。
鼻緒は傷み、底も薄い。
「一足くれ」
銭が渡される。
別の兵が酒を見る。
「これは?」
「兵庫津から」
「高いか」
値を聞く。
「……一本」
羽柴の兵たちは、もはや市を完全な敵地とは思わなくなりつつあった。
何か月もそこにある。
昨日もあった。
今日もある。
自分たちの米も、そこで買ったことがある。
味噌も。
草履も。
鍋も。
少弐の市はいつの間にか、陣の日常風景になっていた。
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そして、ある日。
少弐が言った。
「今日は売らない」
四十郎が嫌な予感を覚えた。
「……喜捨でございますか」
「うん」
「今度は何を配ります」
少弐は並べられた荷を見る。
草履。
手拭い。
少量の膏薬。
干魚。
そして小さな酒。
四十郎が目を瞬いた。
「これは……」
「兵が欲しがってたもの」
「誰に配るおつもりで?」
少弐は答えなかった。
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いつものように人々へ品を渡した。
近隣の老人。
戦で商いが難しくなった者。
旅人。
そして市の端には、羽柴の足軽が何人か立っていた。
見張りである。
少弐は気づいていた。
草履を一足持つ。
そして声をかけた。
「そこの方」
足軽が自分を指差した。
「儂か?」
「はい」
「何だ」
「草履、傷んでおりますよ」
足軽が足元を見る。
確かに傷んでいる。
「……だから何だ」
少弐は新しい一足を差し出した。
「どうぞ」
足軽が固まった。
「銭は?」
「いりません」
「なぜだ」
「今日は喜捨です」
「儂は羽柴の兵だぞ」
「見れば分かります」
「敵ではないか」
少弐は少し考えた。
「今は停戦中でしょう」
足軽は返す言葉を失った。
周囲で笑いが起きた。
少弐は草履をもう一度差し出した。
「足が痛いでしょう」
長い沈黙。
やがて――
足軽が受け取った。
「……本当に銭はいらぬのだな」
「はい」
「あとで返せと言うなよ」
「言いません」
「では……もらう」
渡った。
四十郎は目を見開いた。
少弐は何でもない顔をしていた。
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一人が受け取れば、境目が変わる。
別の足軽が近づいてきた。
「手拭いもか」
「どうぞ」
「酒は?」
「一人一つ」
「儂もよいのか」
「困っているなら」
「困っておる」
即答だった。
酒が渡った。
今度は笑いが大きくなる。
見張り役だった羽柴兵が、少弐の喜捨の列に混じり始めた。
もちろん大量ではない。
ほんの数人。
それでも十分だった。
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報告を聞いた官兵衛は、さすがに呆れた。
「羽柴の兵にまで配ったので?」
「うん」
「受け取りましたか」
「受け取った」
四十郎が横から言う。
「最初は随分警戒しておりましたが」
「当然でしょう」
「二人目から早かったです」
官兵衛は額に手を当てた。
「少弐殿」
「何だ」
「これ以上はお気をつけください」
少弐も頷いた。
笑い話に見える。
だが、これは危険だった。
羽柴軍の規律へ触れ始めている。
少弐も分かっている。
だから兵を勧誘しない。
情報を聞かない。
寝返りも求めない。
ただ、
欲しい物を渡す。
それだけに留めた。
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しかし効果はあった。
羽柴の足軽たちの間で、奇妙な話が広がった。
「あの市、今日は草履をくれたぞ」
「銭はいらぬのか」
「いらぬ」
「羽柴の兵でも?」
「もらえた」
「酒は?」
「少しだけだ」
翌日。
市を監視する兵が昨日より増えた。
少弐はそれを見て四十郎に囁いた。
「増えたな」
「見張りでしょうか」
「たぶん」
少弐は少し考える。
「今日は何を配ろう」
「まだやるのでございますか」
「毎日同じだと飽きるだろ」
「何の心配をしておられるのです!」
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そのころ秀吉は、まったく笑っていなかった。
「……儂の兵が?」
「はい」
「少弐の施しを?」
「受け取った者が何人か」
「何を」
「草履、手拭い、酒などを」
秀吉は黙った。
米ならまだ理解できる。
腹が減っていたと言える。
だが草履。
手拭い。
酒。
完全に陣中生活を支える品だった。
そして何より厄介なのは、少弐が何も要求していないことだった。
情報を聞いたわけでもない。
寝返れと言ったわけでもない。
ただ渡した。
だから処罰するにも微妙だった。
秀吉が低く言った。
「……次から受け取らせるな」
「はっ」
「買うのも?」
秀吉は一瞬止まった。
それを禁じると困る。
市から買う米。
味噌。
塩。
草履。
鍋。
長陣が続くほど、羽柴軍自身が便利に使い始めていた。
秀吉はようやく気づいた。
少弐は三木城へ兵糧を入れるだけではない。
もっと厄介なことをしている。
羽柴軍の日常そのものへ入り込もうとしている。
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一方、清盛館。
官兵衛は地図を見ながら呟いた。
「裁定が長引くほど、奇妙なことになって参りますな」
「うん」
少弐は帳面を見ていた。
草履――よく出る。
酒――非常によく出る。
手拭い――よく出る。
膏薬――兵に人気。
米、味噌、塩――安定。
まるで商家の売上調査だった。
だが相手は、三木城を包囲している羽柴軍である。
少弐は帳面を閉じた。
「もう少し変えてみよう」
四十郎が嫌そうな顔をした。
「次は何を配るので?」
少弐は考える。
そして笑った。
「長く家を離れている男が、もらって嬉しいもの」
官兵衛が少弐を見る。
その言葉には、笑いだけでは済まない意味があった。
羽柴軍が三木に長くいるほど。
兵は疲れる。
草履は破れる。
服は汚れる。
故郷が恋しくなる。
酒が欲しくなる。
温かい飯が欲しくなる。
少弐が次に相手にしようとしているのは、羽柴秀吉の銭でも兵糧でもなかった。
長陣そのものが生み出す、兵の心だった。




