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裁定中――止まらぬ市と空の荷駄

天正二年六月。


赤松則房からの抗議状を受け取った織田信長は、すぐに羽柴秀吉の全面撤兵を命じなかった。


かといって、赤松の訴えを退けもしなかった。


信長が選んだのは――裁定だった。


使者が赤松のもとへ送られる。


羽柴方と赤松方、それぞれに言い分を出させ、山城か大和の寺院を場として改めて境目と禁制について話し合わせる。


その間、三木の戦そのものをどうするかについて明確な結論は出さない。


つまり、


裁定中。


その知らせが清盛館へ届いた時、官兵衛はしばらく書状を読んでいた。


「信長公らしい裁きにございます」


「うん」


少弐冬明は頷いた。


「どちらにもまだ勝たせない」


そして少し笑った。


「なら、確かめてみよう」


官兵衛が嫌な予感を覚えた。


「何をでございます」


「裁定中なら、今の線はどっちなんだ?」


官兵衛は黙った。


確かに、そこが曖昧だった。



---


翌朝。


羽柴勢が新たに禁止区域へ組み込んだ場所に、また市が立った。


米。


塩。


味噌。


草履。


鍋。


酒。


少弐本人もいる。


羽柴方の役人が飛んできた。


「少弐殿!」


「おはようございます」


「何をしておられる!」


「市です」


「見れば分かる!」


以前より怒るのが早かった。


「ここは禁制の範囲である!」


少弐は不思議そうに聞いた。


「まだ?」


「まだ、とは何だ!」


「裁定中でしょう」


役人が一瞬止まる。


「赤松殿と羽柴殿のどちらの申し分が正しいのか、信長殿が改めて裁定されるのでしょう?」


「それとこれとは――」


「では裁定前に羽柴殿が決めた線を、裁定中にもそのまま適用するのですか」


「当然であろう!」


「それでは、裁定する意味がないのでは?」


また始まった。



---


兵が集まり始めた。


商人も集まる。


近隣の者も足を止める。


少弐はしばらく言い合った。


だが今回は、羽柴兵が前へ出てくるのを見ると、あっさり手を上げた。


「分かった」


役人の方が驚いた。


「……何?」


「今日は帰る」


「帰るのか?」


「うん」


少弐は商人たちへ声をかけた。


「畳め」


荷が片付けられる。


羽柴方は拍子抜けした。


少弐は帰り際、役人に頭を下げた。


「ではまた」


「また?」


少弐は答えず帰った。



---


翌朝。


同じ場所。


羽柴役人が駆けつけた。


そして立ち尽くした。


「……またか」


少弐がいた。


米もある。


味噌もある。


塩もある。


だが値札がない。


「今日は市ではありません」


役人が頭を抱えた。


「喜捨か!」


「よくお分かりで」


「昨日帰ったではないか!」


「市は帰りました」


「お前は残っておるではないか!」


「今日は施しです」


少弐は平然と米を配らせた。


「戦で難儀している者へ。銭はいらない」


昨日と同じ場所。


昨日と違う理屈。


そして羽柴方が強く止めようとすれば、また、


『裁定中なのに、播磨の民への施しまで羽柴が禁じるのか』


という話になる。


役人はとうとう、


「秀吉様へ伺う!」


と言って引き揚げた。


少弐は頭を下げた。


「お願いいたします」



---


その日のうちに、秀吉のもとへ少弐から書状が届いた。


内容は丁寧だった。


だから余計に腹が立つ。


赤松氏から異議が申し立てられ、信長公が改めて裁定すると決めた。


ならば、


裁定の対象となっている羽柴方の新たな禁制を、裁定が終わる前から既成事実として適用するのはいかなる根拠によるものか。


少弐は問うた。


そして最後に、


裁定が下るまでは従前の取り決めに戻すのが妥当ではないか。


秀吉は読み終えると紙を置いた。


「……官兵衛か?」


側近が首を振る。


「黒田殿は兵庫津から動いておらぬようにございます」


「分かっておる!」


秀吉はもう一度書状を見る。


「だから余計に腹が立つのだ」



---


その翌日。


四十郎が荷駄を連れて三木へ向かった。


今度は堂々としていた。


当然、羽柴勢に見つかった。


「止まれ!」


四十郎は止まった。


「何用だ!」


「三木城へ参ります」


「荷は何だ!」


「商いの品にございます」


「通せぬ!」


四十郎は首を傾げた。


「なぜでございます」


「なぜも何もあるか!」


「しかし現在、信長公による裁定中と承っております」


羽柴兵の顔が引きつった。


また同じ理屈だった。


「裁定が済むまで従前の取り決めに戻るのでは?」


「戻らぬ!」


「では、その根拠をお示しいただけますか」


「帰れ!」


「書付をいただければ」


「帰れ!」


四十郎は粘った。


しかし今日は、絶対に突破しようとはしなかった。


なぜなら――


荷駄の中身は、ほとんど価値のない物だった。


俵の上だけ米を薄く入れ、その下は藁。


箱も空に近い。


最初から揉めるための荷駄だった。



---


清盛館を出る前。


少弐は四十郎へ念を押していた。


「絶対に突破するな」


「はい」


「押されたら?」


「下がります」


「荷を取られそうになったら?」


「渡します」


「殴られそうになったら?」


「逃げます」


「よし」


四十郎が尋ねた。


「では何のために参るので?」


少弐は答えた。


「羽柴殿が、裁定中に何を根拠にお前を止めるのか確認する」


つまり今日は兵糧輸送ではない。


証拠を取りに行く。


そして羽柴勢が表の荷駄へ対応している間、本当の兵糧は別の小道から動いていた。



---


案の定、四十郎は夕方に帰ってきた。


「止められました」


「何と言われた」


官兵衛がすぐ尋ねる。


四十郎は覚えてきた言葉を一つずつ説明した。


どの場所で。


誰が。


何と言った。


どこまで進んだ。


羽柴方が何を根拠にした。


書付は出たか。


暴力はあったか。


すべて確認する。


少弐が尋ねた。


「荷は?」


「一つ開けられました」


「どうだった?」


四十郎が笑った。


「藁を見て、たいそう怒っておりました」


官兵衛が少弐を見る。


「少弐殿」


「何だ」


「最初からこれが目的でしたな」


「うん」


「本当の荷駄は?」


そこへ別の男が入ってきた。


「申し上げます」


三人が振り返る。


「三木への荷、入りましてございます」


四十郎が目を丸くした。


「もう?」


「はい」


米。


塩。


味噌。


薬。


量は多くない。


しかし本物だった。


四十郎が羽柴勢と街道で堂々と揉めている間、別の小さな荷が薄くなった包囲線を抜けていた。


官兵衛は地図を見て、静かに息を吐いた。


「羽柴殿も、そろそろ我慢の限界でしょうな」


「だろうな」


少弐も分かっていた。


だからこそ、無茶はしない。


市を開く。


揉める。


引く。


翌日は喜捨。


また揉める。


四十郎を送る。


止められる。


記録する。


だが、決して先に刀を抜かない。


決して羽柴兵へ手を出さない。


羽柴側に『少弐が停戦を破った』と言わせる材料だけは渡さない。


そして、その間にも時間は過ぎる。


一日。


また一日。


秀吉は三木にいる。


兵は食う。


馬も食う。


銭は減る。


荷駄は動く。



---


その夜、少弐は官兵衛に尋ねた。


「裁定、いつ頃になると思う」


「信長公の使者が赤松殿と話し、羽柴方の申し分も聞くとなれば、すぐには」


「そうか」


少弐は少し安心したように頷いた。


官兵衛が苦笑する。


「普通は早い裁定を望むものですが」


「俺たちは違う」


「はい」


少弐は三木の地図を見る。


「三木には悪いけどな」


そして羽柴秀吉の駒を指で押さえた。


「もう少し、ここにいてもらおう。」


信長が裁定を始めたことで、戦は止まるどころか奇妙になった。


誰も槍を合わせていない。


だが市では毎日のように揉め、


書状が飛び、


赤松が守護権を主張し、


四十郎は空の荷駄を引いて羽柴軍へ向かい、


その陰で本物の米が三木城へ入っていく。


三木城攻めはいつしか――


誰が先に怒って一線を越えるかという、政治と忍耐の戦になっていた。

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