十日目の施し――守護が目を覚ます日
天正二年六月。
羽柴秀吉が新たに定めた禁制、その発効の日が来た。
十日前に立てられた札には、この日から三木周辺の市と商いを禁ずる範囲を広げる、と明記されている。
それを承知の上で、少弐冬明は市へ向かった。
供は多くない。
黒田官兵衛は、今回も兵庫津に残した。
代わりに須知を連れている。
ただし、いつもの姿ではなかった。
「須知」
「はい」
「もう少し汚せ」
「……これ以上でございますか」
「護衛に見える」
旅装に着替え、笠を被り、目立つ武具も隠す。
遠目には少弐の供回りというより、荷を扱う男の一人にしか見えない。
須知は不満そうだった。
「少弐殿」
「何だ」
「ここまでして行く必要がございますか」
「ある」
少弐は即答した。
「今日、何かあればお前が俺を連れて逃げろ」
「承知しております」
そして四十郎には別の役目を与えた。
「四十郎」
「はい」
「今日はよく見ておけ」
「何をでございます」
「全部」
少弐は羽柴の立て札を見る。
「誰が来た。何を言った。俺が何を言った。向こうが何をした。覚えておけ」
四十郎が理解する。
今日は商人としてだけではない。
証人として連れてこられた。
「承知いたしました」
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市にはいつもと同じように荷が並んだ。
米。
味噌。
塩。
干魚。
薬。
少量の酒。
だが、値札がない。
羽柴方の役人がやってくる。
「少弐殿」
「おはようございます」
「何をしておられる」
「荷を持って参りました」
「今日からここでは商いを禁ずると、十日前に触れたはず」
「承知しております」
少弐は四十郎を見る。
「始めよう」
「はい」
四十郎が声を張った。
「戦で難儀しておる者! 食うに困る者がおれば参られよ!」
役人が怪訝な顔をする。
「何を――」
「銭はいらぬ!」
米が渡される。
「一人これだけ! 家族の多い者は申されよ!」
塩。
味噌。
干魚。
次々に配られていく。
羽柴方の役人が慌てた。
「待たれよ!」
少弐が振り返る。
「何でしょう」
「商いを禁ずると申したであろう!」
「商っておりません」
「物を渡しておる!」
「はい」
「ならば同じことだ!」
「違います」
少弐は即答した。
「銭を取っておりません」
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周囲に人が集まり始めた。
戦が続けば、城兵だけが苦しむのではない。
街道を使いにくくなる。
畑へ出るにも気を遣う。
物価も動く。
商いも滞る。
近隣の民にも負担は出る。
少弐はそういう者に食料を渡した。
「私はキリシタンです」
役人を見る。
「腹を空かせた者に食べ物を分けることを、善い行いと教わっております」
周囲の日本人には、それが何宗の言葉なのかまではよく分からない。
ただ、
「少弐殿が喜捨をしている」
という話になった。
役人は困った。
「しかし、この場所は禁制の範囲だ!」
「市を禁ずるのでしょう」
「そうだ!」
「私は売っておりません」
「屁理屈を申されるな!」
少弐は少し笑った。
「では確認いたします」
四十郎を見る。
「よく聞いておけ」
「はい」
そして役人へ向き直る。
「羽柴殿の禁制は、商いを禁ずるものですね?」
「そうだ」
「施しも禁ずる?」
役人が詰まった。
「それは……」
「戦で困窮した播磨の民へ、私物の米を分けることも禁ずるので?」
「……」
「ならば、そう書いた新しい札を立ててください」
役人の顔が険しくなる。
「少弐殿」
「はい」
「我らを愚弄しておられるのか」
少弐の表情から笑みが消えた。
「いいえ」
そして四十郎へ、もう一度言った。
「見ておけ」
須知も、人混みの中から静かに周囲を見ている。
何かあれば、すぐ少弐を引き離すつもりだった。
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「止めよ」
とうとう羽柴兵が前へ出た。
須知の身体が僅かに動く。
少弐は気づいた。
だが振り返らない。
「何を止める?」
「配るのをだ」
「なぜ?」
「ここは羽柴勢が軍事上、往来と市を規制すると定めた場所である」
「では――」
少弐は一袋の米を持った。
「これをあの老人へ渡したら、羽柴殿への敵対行為になりますか」
「そのようなことは申しておらぬ!」
「なら渡します」
渡した。
「待て!」
「では敵対行為なのですか」
「違う!」
「なら渡します」
「だから待て!」
堂々巡りだった。
四十郎は必死に見ていた。
誰が何を言ったのか。
誰が先に手を伸ばしたか。
少弐が刀に触れたか。
羽柴兵が武器を構えたか。
すべて覚える。
少弐は最初から、それを狙っていた。
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そのころ。
同じ播磨国内の別の場所では、赤松則房の書状を携えた使者が走っていた。
一通は――羽柴秀吉へ。
そしてもう一通は、さらに東へ。
安土の織田信長へ。
内容はほぼ同じだった。
羽柴氏と別所氏の戦について、赤松氏はここで是非を論じない。
しかし、
播磨守護として、羽柴勢が三木城から離れた村落、市、街道にまで独自に禁制を広げることは看過できない。
軍事上の封鎖を三木城およびその直接の軍路に限り、それ以外の播磨領民の往来と商いを妨げぬよう求める。
それは小田の名ではない。
少弐の名でもない。
播磨守護・赤松氏の名で書かれていた。
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羽柴陣。
書状を読んだ秀吉は、しばらく黙っていた。
「……赤松?」
もう一度読む。
別所ではない。
少弐でもない。
赤松である。
秀吉の顔から、徐々に苛立ちが消えていった。
代わりに、別の表情になる。
考えている。
「そういうことか」
十日前。
少弐は新しい禁制を見ても、すぐ安土へ訴えなかった。
市も畳まなかった。
それどころか、九日間ぎりぎりまで商い続けた。
そして十日目には――施し。
「少弐め」
秀吉はようやく理解した。
「十日間、儂と争う支度をしておったのではない」
赤松の書状を見る。
「赤松を起こしておったのか」
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そして安土。
信長の前にも、同じ書状が置かれた。
「播磨守護……赤松」
信長は一度読んだ。
もう一度読む。
羽柴と別所の戦。
小田との停戦。
少弐の商人。
播磨の市。
そして今度は赤松。
話が一段大きくなった。
もはや、
「四十郎が三木へ米を運べるか」
という話ではない。
羽柴秀吉が、播磨国内のどこまでを軍事上規制する権限を持つのか。
その問題になった。
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一方、そのことをまだ知らない少弐は、市で羽柴勢と揉め続けていた。
「だから、売っていないでしょう」
「人を集めれば市と同じだ!」
「では教会の施しも市になりますか?」
「ここは教会ではない!」
「それはそうですね」
「納得するな!」
周囲から、わずかに笑いが漏れた。
だが須知だけは笑っていなかった。
羽柴兵の手。
槍の位置。
少弐までの距離。
退路。
すべて見ている。
四十郎も笑わなかった。
少弐に言われた通り、
証人としてすべてを目に焼き付けていた。
この場だけ見れば、奇妙な屁理屈の応酬だった。
だが同じ瞬間――
羽柴秀吉の手には赤松からの抗議状があり、
安土の織田信長の手にも同じ書状が届いていた。
少弐が無料の米一袋をめぐって羽柴兵と揉めている、その背後で。
三木城を巡る争いはついに、
商いの戦から、播磨守護権と織田・小田の停戦をめぐる政治の戦へ移り始めていた。




