十日の猶予――秀吉、線を引き直す
天正二年六月。
清盛館へ戻ってきた四十郎は、以前とは明らかに機嫌がよかった。
「少弐殿、官兵衛殿」
「入ったか」
少弐が聞くと、四十郎は大きく頷いた。
「はい。以前より、はるかに容易く」
三木城への迂回搬入だった。
一度に大量の荷を運んだわけではない。
米、塩、味噌、薬。
荷を分け、人を分け、道を変えた。
ところが以前なら羽柴勢の見張りを避けるだけで一苦労だった道が、妙に静かになっている。
「見張りが減っております」
官兵衛が顔を上げた。
「どこで?」
四十郎が地図を指す。
一か所。
二か所。
さらにもう一つ。
「ここなど、以前は必ず二組ほどおりました。それが昨日は一組も」
「巡回は?」
「減っております」
少弐と官兵衛が顔を見合わせた。
理由はすぐ分かった。
市だった。
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羽柴勢が買い続けた品が、とうとう羽柴軍の後方を圧迫し始めていた。
米なら食える。
味噌も塩も使える。
酒も飲める。
草履も履ける。
鍋も使える。
しかし、それでも量が多い。
さらに釘。
布。
油。
紙。
薬。
鉄製品。
干物。
買い占めた商品をそのまま前線に積んでおくわけにはいかない。
「後ろへ送っているのか」
少弐が尋ねる。
四十郎が頷いた。
「荷駄隊を組んでおります」
「どのくらい?」
「正確には分かりませぬが、以前より明らかに多く」
羽柴軍自身の荷駄馬。
人夫。
護衛。
それらが、買い込んだ物資を後方へ運び始めていた。
そして荷駄隊には護衛が必要になる。
兵が抜かれる。
街道警備から抜く。
巡回から抜く。
包囲線からも少しずつ抜く。
結果――
三木城を囲む輪が薄くなった。
官兵衛が地図を眺めた。
「なるほど」
四十郎が言う。
「ですから今回は、随分楽にございました」
「楽?」
「以前でしたら半日ほど様子を見てから渡った場所を、そのまま通れました」
少弐が笑った。
「羽柴殿が買った荷を運ぶために兵を抜いて、その隙間から三木へ俺たちの荷が入ったのか」
「左様にございます」
なんとも奇妙だった。
羽柴秀吉は三木城を飢えさせるために商品を買った。
その商品が増えすぎた。
それを運ぶために包囲兵を減らした。
そして薄くなった包囲線を、四十郎が兵糧を背負って抜けた。
官兵衛まで小さく笑った。
「少々、出来すぎておりますな」
だが――
四十郎はそこで表情を変えた。
「ただし」
懐へ手を入れる。
「今日は、もう一つございます」
折り畳んだ紙を取り出した。
「何だ?」
「市で見つけました」
少弐へ渡す。
官兵衛も横から覗き込んだ。
羽柴勢からの触れだった。
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十日後より、市・商売を禁ずる区域を改める。
これまで羽柴秀吉自身が示していた範囲より、明らかに広い。
三木へ続く街道だけではない。
市を開いていた村。
さらに、その周辺。
少弐側が新たに市を立てた場所まで、いくつか含まれている。
四十郎が言った。
「同じものが各所に立てられております」
「もう禁じているのか?」
「いいえ」
四十郎は首を振った。
「十日後からにございます」
官兵衛の目が細くなった。
「いきなり潰さなかったか」
少弐もそこに気づいた。
「十日置いた」
「はい」
秀吉も学んでいた。
突然、市を潰せば問題になる。
少弐が騒ぐ。
四十郎が来る。
場合によってはまた少弐本人が羽柴陣に座り込みかねない。
だから今回は先に触れを出した。
十日の猶予を置く。
商人には退去する時間を与える。
その上で、
『ここからは戦場である』
と線を引き直す。
「上手いな」
少弐が呟いた。
四十郎が驚く。
「感心している場合でございますか」
「敵が上手い時は上手いと言っていい」
官兵衛も頷いた。
「前回とは違います」
秀吉は少弐の商品を壊さない。
商人を殴らない。
没収もしない。
買い占めることさえやめる。
その代わり、
十日後から、その場所では商売そのものを認めない。
「羽柴殿も、我らとの争い方が分かってきましたな」
官兵衛が言った。
少弐は触れを読み直した。
「それだけじゃない」
「はい」
「この十日、俺たちにも考えろと言ってる」
官兵衛が少弐を見る。
その通りだった。
これは警告でもある。
これ以上やるなら、次は政治の話になるぞ。
秀吉も承知している。
少弐も承知している。
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四十郎が尋ねた。
「では、市を退かせますか」
少弐は答えなかった。
地図を広げる。
新しい禁止区域を重ねる。
広い。
明らかに広い。
以前は、
「三木城へ兵糧を入れさせないため」
と言えた。
だが今回の線は違う。
別所領だけではない。
周辺の村々。
街道。
普通の市。
播磨の人間が日常的に使う場所にまで羽柴勢が線を引き始めている。
官兵衛が静かに言った。
「少弐殿」
「うん」
「そろそろ、最初の理屈では苦しくなって参りましたな」
秀吉の最初の主張は単純だった。
別所氏と羽柴氏の戦である。
だから小田には関係がない。
だから織田・小田の停戦にも反しない。
しかし今――
羽柴秀吉が、自らの判断で播磨国内の市と街道にまで規制区域を広げようとしている。
少弐は触れを机に置いた。
「官兵衛」
「はい」
「赤松殿は今、何をしている?」
官兵衛の表情が変わった。
以前、少弐自身が口にした案。
赤松氏を播磨守護として押し立てる。
あの時はまだ早かった。
別所と羽柴の争いに、赤松を無理に入れる理由が弱かったからだ。
だが今は違う。
官兵衛は新しい禁止区域を指でなぞった。
「羽柴殿は、自ら理由を作ってくださいました」
「うん」
少弐も頷く。
四十郎が二人を見る。
「どういうことでございます」
官兵衛が答えた。
「羽柴殿が三木城を囲むことと――」
指が、三木城から離れた村へ動く。
「播磨の市を禁ずることは、別の話にございます」
少弐は立て札から写してきた紙を丁寧に畳んだ。
「これは取っておこう」
「証拠として?」
「うん」
そして四十郎を見る。
「十日あるんだな」
「はい」
「なら、市はまだ畳むな」
四十郎が驚いた。
「続けるので?」
「十日後から禁止なんだろう?」
少弐が笑った。
「なら九日間は商っていいと、羽柴殿自身が言っている」
官兵衛が吹き出した。
「左様でございますな」
「米を増やせ」
「まだ増やしますか」
「塩も味噌も。羽柴が買うなら売る。買わないなら三木の者に買ってもらう」
さらに少弐は付け加えた。
「四十郎」
「はい」
「迂回の方も続けろ」
「承知いたしました」
「今までより慎重に。ただ――」
少弐は包囲線の薄くなった場所を見る。
「入れられるうちに入れておこう」
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その夜。
清盛館では遅くまで灯が消えなかった。
市をどうするか。
三木へどれだけ入れるか。
羽柴勢の新しい線をどう扱うか。
そして――赤松氏へいつ話を持っていくか。
官兵衛が最後に尋ねた。
「信長公へは?」
少弐は首を振った。
「まだ」
「やはり?」
「十日ある」
少弐は羽柴の触れを見た。
「秀吉殿が十日くれたんだ」
そして少し笑う。
「ありがたく使わせてもらおう」
官兵衛も笑った。
しかし二人とも分かっていた。
この十日が終われば――
これまでのような商人と軍勢の奇妙な喧嘩では済まなくなる。
羽柴秀吉は線を広げた。
次に動くのは、
播磨守護――赤松氏だった。




