安い米と高い代償――羽柴陣を養う市
天正二年五月。
少弐冬明は、市に並べる品をまた変えた。
これまで少弐は、釘や干し蛸、上等な薬、油、布などを混ぜ、羽柴勢がどこまで買いに来るかを測っていた。
十分だった。
羽柴勢がどこまで人を出すのか。
何を警戒して買うのか。
どれほどの量なら買い占められるのか。
輪郭は見えてきた。
そこで少弐は官兵衛に言った。
「今度は値を下げよう」
官兵衛が顔を上げた。
「値を?」
「米、味噌、塩だ。量を増やして安くする」
四十郎が不思議そうに尋ねた。
「羽柴殿から銭を取るのであれば、高くした方がよいのでは?」
「逆だ」
少弐は答えた。
「買わない理由をなくす」
官兵衛がすぐに理解した。
「なるほど」
値段が高ければ、秀吉は三木への流入を防ぐためだけに買う。
しかし安ければ違う。
羽柴軍自身が欲しくなる。
「羽柴の兵だって飯を食う」
少弐は言った。
「なら、こちらから買った方が楽だと思わせればいい」
官兵衛が笑った。
「買い占めを、仕入れに変えるわけですな」
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数日後。
市の様子が変わった。
米が増えた。
塩が増えた。
味噌樽が並んだ。
しかも安い。
羽柴の買い付け役が値を聞いて驚いた。
「昨日より安いではないか」
「たくさん仕入れましたので」
商人は平然としている。
「……全部買う」
「ありがとうございます」
最初は三木へ渡さないためだった。
だが羽柴勢も長く陣を張っている。
大量の兵を食わせなければならない。
米も塩も味噌も、どうせ必要になる。
しかも近くの市で安く買える。
わざわざ遠方から運ばせるより楽だった。
羽柴軍の兵糧担当からも声が出始めた。
「次の米も、あの市で買えばよいのでは」
それこそ少弐の狙いだった。
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さらに市の商品が変わった。
鍋。
釜。
草履。
縄。
陣笠。
油。
酒。
簡単な薬。
針と糸。
雨除け。
長く陣を張れば傷み、壊れ、なくなる物ばかりだった。
ある日、買い付けに来た羽柴兵が新しい草履を手に取った。
「……いくらだ」
値を聞く。
安い。
自分の草履を見る。
底が随分薄くなっている。
「一足くれ」
隣の兵も見る。
「儂も」
その横には酒。
「これは?」
「兵庫津から」
「……一本」
さらに鍋。
陣笠。
気がつけば、三木への流入を阻止するためではなく、羽柴兵自身が買っている。
少弐の市は、少しずつ羽柴陣の日常へ入り込んでいった。
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秀吉も当然、報告を受けた。
「米はいくらだ」
数字を聞く。
「……安いな」
「はい」
「塩は」
「こちらも」
「味噌は?」
報告を聞く。
秀吉は黙った。
兵糧担当が恐る恐る言った。
「殿」
「何だ」
「どうせ買い占めるのでございましたら……」
嫌な予感がした。
「申せ」
「我らの兵糧として使ってもよろしいのでは」
秀吉はしばらく黙っていた。
理屈は正しい。
買った米を腐らせる理由はない。
兵は食う。
なら食わせればいい。
「……使え」
「はっ」
「ただし」
秀吉が念を押した。
「少弐から兵糧を買っておるなどと言うな」
「しかし市の者は皆知っております」
「分かっておる!」
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清盛館へその話が届いた。
少弐は笑った。
「食べ始めたか」
「そのようです」
官兵衛も笑っていた。
だが、すぐ真顔になる。
「ここからでしょうな」
少弐も頷いた。
目的は羽柴軍へ商品を売ることではない。
羽柴軍が、それを当たり前だと思うところまで続けること。
昨日も米があった。
今日もある。
明日もある。
安い。
近い。
種類も多い。
やがて羽柴の補給担当が、
「不足分は市で買えばよい」
と考えるようになる。
その瞬間、市は単なる敵対商人の集まりではなくなる。
羽柴軍の補給網の一部になる。
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そのころ。
少弐は四十郎を別室へ呼んだ。
「四十郎」
「はい」
「そろそろ叔父上への商いを戻そう」
四十郎が顔を上げた。
「よろしいので?」
「うん」
「正面から?」
「それはやめろ」
四十郎が少し残念そうな顔をした。
少弐は笑った。
「お前、正面から行くの好きになってないか」
「軍勢が割れるのが少々……」
「楽しむな」
官兵衛が地図を広げた。
「迂回します」
羽柴勢の監視は市へ分散している。
市が増えた。
買い付け役が増えた。
荷駄が動く。
近隣の街道には、羽柴自身が買った商品を運ぶ荷車まで行き交っている。
人の流れが増えた。
だからこそ――
別の道が薄くなる。
官兵衛がいくつかの経路を示した。
「一度に大量には運びませぬ」
「はい」
「米だけでも駄目です」
味噌。
塩。
薬。
干物。
少量ずつ分ける。
荷駄一列ではなく、小さな荷にする。
「そして何より」
官兵衛は四十郎を見る。
「無理をしないこと」
「承知しております」
「見つかったら?」
「帰ります」
「よろしい」
少弐も言った。
「叔父上を助けるために、お前が捕まったら意味がないからな」
四十郎は深く頭を下げた。
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こうして奇妙な二重構造が生まれた。
表では――
兵庫津から大量の商品が来る。
羽柴勢が買う。
羽柴兵がその米を食う。
羽柴兵が少弐の市で買った草履を履く。
少弐の市で買った鍋で飯を炊く。
少弐の市で買った酒を飲む。
少弐の市で買った陣笠を被る者まで出てくる。
そして裏では――
四十郎たちが少量の米と塩を抱え、別の道を三木へ向かう。
皮肉なことに、その迂回を容易にしているのは、増えすぎた市だった。
羽柴の目は市を見る。
羽柴の人夫は商品を運ぶ。
羽柴の馬も商品を運ぶ。
羽柴の銭は兵庫津へ流れる。
その隙間を、四十郎が抜ける。
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ある夕方。
羽柴の兵二人が見張りに立っていた。
一人が新しい草履を履いている。
もう一人が尋ねた。
「それ、どこで買った」
「向こうの市」
「いくらだった」
答える。
「安いな」
「まだ売っておったぞ」
「明日行くか」
その遥か向こう。
林の陰を、小さな荷を背負った四十郎たちが静かに通り過ぎていった。
誰も気づかなかった。
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数日後。
三木城。
別所長治の前へ米が置かれた。
大量ではない。
だが米がある。
塩もある。
味噌もある。
薬も届いた。
長治が四十郎を見る。
「どうやって入れた」
四十郎は少し考えた。
「羽柴殿のおかげにございます」
「……何?」
「羽柴勢が忙しゅうございますので」
説明を聞いた長治は、しばらく何も言えなかった。
やがて笑い出した。
「何をやっておるのだ、お前たちは」
四十郎も笑った。
だが最後には真顔になった。
「叔父上」
「うむ」
「まだ終わりませぬ」
「分かっておる」
城外では羽柴秀吉が三木を囲んでいる。
さらにその外では少弐の市が羽柴を囲み始めている。
そして少弐は、まだ信長へ書状を出していなかった。
秀吉を止めるためではない。
もう少しだけ、三木にいてもらうために。
天正二年五月。
羽柴軍は三木城を包囲しながら――
少しずつ、少弐冬明の商圏の中で暮らし始めていた。




