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市を餌に――少弐、羽柴を測る

天正二年四月。


黒田官兵衛の策に、少弐冬明は乗った。


羽柴勢が買い占める。


ならば売る。


翌日は少し増やす。


それでも買うなら、さらに増やす。


米だけではない。塩、味噌、油、干魚、薬、薪、縄――市で普通に扱われる品を少しずつ増やしていった。


秀吉は買った。


三木城へ流れるくらいなら、自軍で買い上げた方がよい。


少弐はさらに出す。


秀吉もさらに買う。


それを何度か繰り返すうち、清盛館の帳面には数字が蓄積され始めた。


一日にどれほど羽柴勢が買うのか。


どの商品を優先するのか。


どの程度値が上がると買わなくなるのか。


どこの市まで兵を送り込んでくるのか。


何人程度を買い付けに使っているのか。


四十郎だけでなく、市へ出入りする商人たちからも話が入ってきた。


「昨日は米を先に買っておりました」


「こちらでは塩でございます」


「銭を持ってくるのが遅れました」


「今日は買い付けの人数が増えております」


一つ一つは些細な話だった。


だが官兵衛が並べると、少しずつ羽柴軍という巨大な生き物の輪郭になった。



---


ある夜。


官兵衛は集まった帳面を少弐の前へ置いた。


「だいぶ見えて参りました」


「うん」


少弐も数字を眺めていた。


羽柴勢は、思ったより早く対応する。


一つの市で買い占めを始めるまでの日数。


商品の増加に気づくまでの時間。


別の市へ兵を回す速さ。


そして何より、秀吉は一度有効だと判断した策を漫然と続けない。


状況を見て、すぐ変える。


官兵衛は少し考えてから尋ねた。


「少弐殿」


「何だ」


「いっそ安土へ抗議の書状を送りましょうか」


少弐が顔を上げた。


「信長殿へ?」


「はい」


材料は揃いつつある。


羽柴勢が兵庫津から来た商いへ干渉している。


四十郎は一度怪我を負わされ、荷も壊された。


それについて秀吉自身が謝罪し、弁償までしている。


そして今度は市の商品を軍勢で大量に買い占めている。


「大事にしようと思えば、できます」


官兵衛は言った。


「織田・小田の停戦下において、羽柴勢がどこまで播磨の商いへ介入してよいものか。信長公に裁定を求めればよろしい」


少弐はしばらく考えた。


だが、


「まだ早い」


と答えた。


官兵衛が意外そうに見る。


「早い、と?」


「うん」


少弐は地図の上に置かれた羽柴の駒を見た。


「秀吉は危険だ」


「それゆえ早く止めるのでは?」


「逆だ」


少弐は首を振った。


「危険だから、今のうちに観察する」


官兵衛が黙った。


「戦になれば、こんなに近くから秀吉殿を見られない」


少弐は市の帳面を持ち上げた。


「今なら向こうから教えてくれる」


どれほど早く情報を集めるのか。


誰へ命令するのか。


どの程度まで現場へ任せるのか。


どんな物資を重要視するのか。


銭をどこまで使うのか。


どこまでなら損を呑むのか。


何より――


こちらが一手打った時、秀吉がどう考えて次の一手を返してくるのか。


「信長殿へ訴えて止めてもらったら、そこで終わる」


少弐は言った。


「こんな機会、もうないかもしれない」


官兵衛は少弐を見た。


そして静かに頭を下げた。


「……恐れ入りました」


少弐が笑う。


「何だ」


「私は羽柴殿を困らせることばかり考えておりました」


「それもやってくれ」


「もちろん」


二人は笑った。



---


そこから少弐は、市を増やした。


一か所ではない。


二か所。


三か所。


さらに三木から少し離れた町や村にも市を立てた。


当然、羽柴勢は調べる。


三木城の者が買いに来る可能性があるなら、監視しなければならない。


ところが少弐は、遠い市ほど妙な品を混ぜ始めた。


ある日。


羽柴の買い付け役が俵の横に置かれた箱を開けた。


「……釘?」


大量の釘だった。


別の籠には、


「干し蛸……」


瀬戸内らしい干し蛸。


ほかにも兵庫津から来たと分かる商品が並んでいる。


四十郎が横で平然としていた。


「お買いになりますか」


「三木で何に使う!」


「釘は便利でございますぞ」


「それは知っておる!」


羽柴兵は悩む。


買わなければ、三木の者が買うかもしれない。


買えば羽柴の銭が減る。


しかも、この市は遠い。


買い付けるだけで兵を歩かせなければならない。


秀吉は報告を聞いて顔をしかめた。


「釘まで買ったのか」


「三木の者が買う可能性がございましたので」


「干し蛸は」


「買いました」


「……いくらだ」


値を聞いた秀吉の眉が動いた。


「高くないか?」


「少々」


「少々ではない!」



---


少弐は次の段階へ進んだ。


市に、単価の高い品を少しずつ混ぜた。


高級な油。


上等な薬。


質の良い布。


加工した鉄製品。


保存性の高い珍味。


三木城が本当に欲しがりそうなものと、欲しがるかどうか微妙なものを混ぜる。


これが重要だった。


全部が露骨な兵糧なら、秀吉も対応しやすい。


だが、


「これは本当に三木へ入るのか?」


判断しなければならない商品を増やした。


買わなければいい。


しかし、その一つが実は城内で不足している品かもしれない。


なら買う。


その判断をするためには、人が必要になる。


市を監視する者。


三木城の事情を探る者。


商品を確認する者。


買うかどうかを決める者。


銭を運ぶ者。


買った商品を羽柴陣へ運ぶ者。


少弐は羽柴軍から兵を一人も殺していない。


それどころか、商品を売っている。


だが市が増えるほど、


秀吉の兵と銭と時間が、戦場から少しずつ市へ吸い出されていった。



---


清盛館では、大きな地図が広げられていた。


官兵衛が印を付ける。


「今日はここにも羽柴勢が来ました」


「ここまで?」


少弐が驚く。


「はい」


「三木から結構あるぞ」


「ございますな」


少弐は新しい印をつけた。


これはもはや商売の記録だけではなかった。


羽柴秀吉が、どこまでなら兵を動かすのかを測る地図になっている。


少弐が品を置く。


秀吉が兵を送る。


その距離を測る。


次は少し遠くへ置く。


また来る。


さらに遠く。


来るか。


来ないか。


官兵衛が呟いた。


「餌のようですな」


「失礼な」


少弐は笑った。


「ちゃんと銭をもらっている」


「では上客ですか」


「そうだ。羽柴殿ほど律儀に買ってくれる客はいない」


だが、二人とも分かっていた。


これは遊びではない。


秀吉もまた、こちらを見ている。


少弐がどこまで商品を出せるのか。


兵庫津の物流量。


商人を動かす速さ。


播磨にどれほど伝手を持っているのか。


そして、どこまで三木のために銭を使うつもりなのか。


互いに相手を測っていた。


だから少弐は、まだ信長へ書状を出さなかった。


止めるには早い。


もう少し。


あと少しだけ。


羽柴秀吉という男の輪郭を、見ておきたかった。


そして翌朝もまた、三木から少し離れた村に市が立った。


軒先には米俵。


その隣には塩。


さらに釘。


干し蛸。


上等な薬。


そして昨日より少しだけ高価な品。


四十郎は店先に座り、街道の向こうを眺めた。


やがて羽柴勢の姿が見える。


四十郎は笑った。


「来たぞ」


今日もまた――


羽柴秀吉という客が、市へやって来た。

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