奇妙な市――秀吉の買い占め
天正二年四月。
三木近郊に生まれた奇妙な市は、官兵衛が予想していたより長く続いた。
理由は二つあった。
一つは、羽柴秀吉自身がこの市を軽視していたこと。
いや――軽視したかった、と言った方が正しかった。
市に並ぶのは米だけではない。
塩、味噌、魚、油、布、縄、鍋、農具、薬。
近隣の百姓も来る。
商人も来る。
旅人も来る。
そして羽柴の兵まで来る。
その中に三木城の者が混じって買い物をしている。
確かに鬱陶しい。
だが秀吉からすれば、天下を左右するほどの大事には見えなかった。
「市で米を数升買うたところで、城一つ養えるものか」
最初はそう考えていたのである。
もう一つの理由は、もっと厄介だった。
秀吉自身が線を引いてしまった。
四十郎に、
「ここから先は戦場」
「この村なら商いをして構わぬ」
「この市なら好きにせよ」
と書いて渡してしまった。
今さら、
やはり全部駄目だ
とは言いにくい。
まして相手は少弐である。
四十郎を突き飛ばしただけで、本人が羽柴陣までやってきて五日間居座った男だった。
今度は秀吉自身の書付を反故にしたとなれば、何を言い出すか分からない。
しかも織田と小田はいまだ停戦中。
少弐は一兵も動かしていない。
市を力ずくで潰せば、
「羽柴が兵庫津の商いを武力で妨害した」
と問題を大きくされる可能性がある。
かといって三木城へ物資が流れるのを黙って見ているわけにもいかない。
そこで秀吉は、秀吉なりの戦い方を始めた。
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「市をよく見張れ」
秀吉は命じた。
「三木の者と思しき奴がおったら?」
「覚えておけ」
「捕らえますか」
「まだよい」
秀吉は腕を組んだ。
「誰が何を、どれだけ買うか見ておれ」
羽柴兵が市に混じった。
武装した兵だけではない。
普通の格好をした者まで入る。
誰が米を買った。
誰が塩を買った。
どちらへ帰った。
三木へ続く道へ入ったか。
少しずつ調べ始めた。
すると、やはりいる。
三木城の者だった。
だが一人が十俵も二十俵も運ぶわけではない。
一人が一袋。
二人で一俵。
ある者は塩。
ある者は薬。
女や老人まで混じっている。
「面倒な……」
秀吉は報告を聞いて舌打ちした。
捕まえれば済む。
しかしそれを始めれば、市へ来る者を一人一人、
「これは三木の者だから捕らえた」
と判別しなければならない。
もっと簡単な方法があった。
「ならば――」
秀吉が言った。
「先に買ってしまえ」
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翌日。
四十郎が市へ行くと、妙に羽柴兵が多かった。
「今日はよく売れるな」
商人が笑っている。
米が売れる。
塩が売れる。
味噌も売れる。
次々に銭が置かれていく。
だが買っているのは羽柴兵だった。
「米を十俵」
「こちらの塩も全部」
「干魚ももらおう」
「油は?」
「それも買う」
四十郎が目を細めた。
「……なるほど」
羽柴勢は市を潰していない。
商人を追い払ってもいない。
商品を没収してもいない。
普通に銭を払っている。
だから文句をつけにくい。
三木城の者が来るころには、
「米は?」
「売り切れました」
「塩は」
「そちらも」
「薬は?」
「羽柴様が先ほど全部……」
何も残っていない。
羽柴勢は商いを妨害していなかった。
むしろ――
最大の客になっていた。
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報告を聞いた少弐は、しばらく黙った。
それから笑い出した。
「秀吉殿も商人になったか」
官兵衛も感心していた。
「これは上手い」
四十郎だけは笑えない。
「叔父上たちへ何も届きませぬ」
「うん」
少弐もそこは真顔になった。
秀吉の手は単純だが強い。
市を潰さない。
商人を殴らない。
荷駄を壊さない。
少弐の書付にも反しない。
全部買う。
それだけ。
官兵衛は尋ねた。
「代金は?」
「きちんと払っております」
「値切っては?」
「多少は。しかし普通の商いの範囲かと」
「荷を奪ったことは?」
「ございませぬ」
官兵衛は笑った。
「羽柴殿、学ばれましたな」
少弐も苦笑する。
「俺が五日座った甲斐があったな」
「喜んでいる場合ではございませぬ」
四十郎が抗議した。
「分かっている」
少弐は帳面を開いた。
妙なことになっている。
三木城を救うために始めた市なのに、羽柴軍へ大量の物資を売って儲けている。
「……しかし」
少弐が何かに気づいた。
官兵衛も同じところを見ていた。
「官兵衛」
「はい」
「秀吉殿、全部買うと言ったな」
「そのようですな」
「銭は無限にあるのか?」
四十郎が二人を見る。
官兵衛の口元が緩んだ。
「ございません」
ここで初めて、秀吉の買い占めにも弱点が見えた。
市を潰すなら兵を出せばいい。
しかし市を買い潰すなら、毎日銭を出さなければならない。
少弐は兵庫津を背負っている。
瀬戸内から船が来る。
米も来る。
塩も来る。
魚も来る。
四国からも品が入る。
堺からも買える。
播磨各地の商人まで、
「羽柴様がよく買ってくださる」
と聞けば商品を持ってくる。
少弐が笑った。
「では明日は、今日の倍を持っていくか」
四十郎が目を丸くした。
「倍?」
官兵衛は首を振った。
「いえ」
「違う?」
「急に増やしてはいけませぬ」
官兵衛は市の帳面を閉じた。
「羽柴殿が買い占められる量を、まず調べましょう」
少弐が理解した。
「どこまで買うか試すのか」
「はい」
少し増やす。
羽柴が全部買う。
また少し増やす。
それでも買う。
値段もほんの少し上がる。
それでも買うかを見る。
羽柴軍が一日に市へ投入できる銭の限界を測る。
「なるほど」
少弐は楽しそうだった。
「戦ではなく商いで兵糧攻めか」
官兵衛は訂正した。
「まだ兵糧攻めではございません」
「では?」
「羽柴殿に、我らの荷を養っていただくのでございます」
四十郎がとうとう笑った。
翌日も市は開いた。
羽柴兵が来た。
米を買った。
塩を買った。
その翌日。
また少し商品が増えた。
羽柴兵はまた買った。
さらに翌日。
また増えた。
秀吉は帳面を見て、ようやく眉をひそめた。
「……待て」
昨日より多い。
しかも羽柴軍が買えば買うほど、翌日にはさらに多くの商品が並ぶ。
三木を飢えさせるために始めた買い占めが、いつの間にか兵庫津の商人たちにとって、
「羽柴軍という、必ず大量に買ってくれる上客」
を生み出し始めていた。
そして清盛館では官兵衛が静かに待っていた。
秀吉が、
買うのをやめる日を。
その日こそ、三木城へ再び物が流れ始めるからであった。




