雲丸をどうするの!――有馬に浮かぶ南海への道
天正二年二月――有馬。
興福寺から兵庫津へ戻った少弐冬明は、ようやく一度仕事から離れることにした。
安土へ行き、坂本城へ寄り、比叡山で思いもよらぬ依頼を受け、その足で堺へ行けば今井宗及から南海の古寺の噂を聞き、さらに奈良では義浄の記録まで手に入れた。
頭の中が、少々いっぱいだった。
それに――有馬には、もっと大事な用事がある。
「雲丸」
少弐が指を差し出す。
まだ生まれて数か月の雲丸は、それを小さな手で握った。
「おお」
少弐が嬉しそうに声を上げる。
「やはり力が強い」
傍らにいたライラが呆れた。
「昨日も同じこと言ってた」
「昨日より強くなっている」
「一日で?」
「子供の成長は早い」
「親馬鹿」
少弐はまったく気にしない。
雲丸を抱き上げたり、寝かせたり、また抱き上げたりする。
仕事で兵庫津にいる間に見られなかった分まで取り戻すつもりらしい。
そんな有馬に、思わぬ人物が帰ってきていた。
「冬明」
振り返った少弐が目を丸くした。
「マリア?」
マリア・アルヴェスだった。
「いつ帰った?」
「少し前」
少弐は周囲を見回した。
当然ながら、あの巨大な船影はない。
「エスペランサは?」
「いない」
「……船長だけ帰ってきたのか?」
マリアは平然としている。
「途中で単走させた」
「どこへ?」
「デンマーク」
少弐が止まった。
抱かれている雲丸だけが何も知らず、父親の着物を握っている。
「デンマーク?」
「そう」
北方を巡り続けた一角――ユニコーン調査。
オホーツクよりさらに北へ。
海獣の話を集め、角を調べ、土地の伝承を記録してきた。
だが、本当にそれがヨーロッパでいう「ユニコーンの角」と同じものなのか。
最後の答えは、ヨーロッパ側の記録と現物を照合しなければならない。
「だからエスペランサを行かせた」
「デンマークまで……」
「そのうち結果が分かる」
マリアはあっさり言った。
長年追い続けた一角の正体が、ようやく確かめられるかもしれない。
少弐は感慨深そうに頷いた。
「長かったな」
「長かった」
マリアも同意した。
そして少し笑った。
「だから私は、しばらく海へ出ない」
「珍しい」
「あなたに言われたくない」
マリアには氏治からの褒賞もある。
さらにリスボンの貴族から受け取った褒賞もあった。
当面、無理をして航海へ出る必要はない。
ちょうど堺の兵学館から話が来ていた。
「一年か二年、堺で教える」
「何を?」
「船のこと」
航海術。
海図。
船団運用。
外洋航海。
異国船の特徴。
海上での戦い。
大型船の維持と修繕。
マリアが実際に世界の海で経験してきたことは、そのまま教材になる。
「一年か二年も陸にいられるのか?」
少弐が聞いた。
「あなたよりは」
「私は意外と陸にいますよ」
ライラが横から言った。
「嘘」
「ライラまで?」
「雲丸が生まれてからも出雲に行こうとしてた」
「行ってません」
「怒られると思ったからでしょ」
「それを自制心といいます」
マリアが笑った。
少弐も笑うしかなかった。
しばらくは北方の思い出話になった。
室蘭。
樺太。
オホーツク。
一角。
海獣。
長たち。
そして、とうとうデンマークへ向かったエスペランサ。
その話を聞きながら、少弐は雲丸をあやしていた。
やがて少弐が何気ない調子で言った。
「そういえばマリア」
「何?」
「ジャワとスマトラについて、どのくらい知っている?」
ライラが少弐を見た。
マリアも一瞬黙った。
「……今度は南?」
「まだ行くとは言ってない」
「何を知りたいの?」
少弐は興福寺でもらった写本を持ってこさせた。
「義浄という唐の僧について調べた」
「知らない」
「七百年以上前の人だからな」
唐から海へ出た。
南海へ渡った。
室利仏逝という仏教国に滞在し、そこからさらに天竺を目指した。
少弐は簡単に説明した。
「それで堺の今井宗及から聞いたんだ。南海には、昔仏法が栄えた土地があって、今でも古い寺が残っているらしい」
「それでジャワとスマトラ?」
「そう」
マリアは少し考えた。
「港なら知っている。交易についても多少は」
だが、昔の宗教となると専門外だった。
「そういう話なら――」
マリアの視線が動く。
ライラを見る。
少弐も見る。
「何?」
ライラが二人を見る。
「ライラの方が詳しいだろう」
マリアが言った。
ライラは昔から宗教にまつわる品や伝承に興味を持っていた。
北アフリカ。
イベリア。
地中海。
イスラム。
キリスト教。
さらに交易を通じて伝わってくる東方の宗教。
本人が行ったことのない土地についても、商人や船乗りから妙な話を集めていた。
「……あるよ」
ライラが言った。
少弐が身を乗り出した。
「何が?」
「古い寺」
「ジャワに?」
「ジャワにも。スマトラにも昔は仏教の盛んなところがあったって聞いた」
少弐の目が輝いた。
ライラは続ける。
時代が変わり、信じる宗教も変わった。
捨てられた寺。
森に埋もれた寺。
新しい信仰を持つ者から、偶像崇拝の像として打ち壊されたもの。
頭を失った像。
腕を失った像。
倒されたままになっているもの。
「でも、全部壊されたわけじゃない」
「というと?」
「土地の人が残しているものもあるって。壊れたものを拾ったとか、昔からそこにあるからそのままにしているとか」
少弐は黙った。
比叡山で聞いた言葉を思い出す。
見た者が仏心を持つような、神々しいもの。
新品の金仏ではない。
一度壊された。
忘れられた。
それでも誰かが拾った。
そして直した。
もし、そんな仏が南海のどこかに本当に残っているなら。
少弐が考え込んだ。
「…………」
ライラの目が細くなった。
「冬明」
「うん?」
「今、何考えてる?」
「別に」
「嘘」
少弐は雲丸を抱いたまま、何気なく尋ねた。
「ジャワまでなら、どのくらい――」
「雲丸をどうするの!」
有馬の部屋にライラの声が響いた。
雲丸がびくっとした。
「おお、よしよし」
少弐が慌ててあやす。
「驚いたな」
「あなたに言ってるの!」
「まだ行くとは言ってない」
「行く人の顔してる!」
「どんな顔ですか」
「北へ行く前と同じ顔!」
マリアが吹き出した。
少弐は雲丸を抱きながら反論した。
「今回は少し調べているだけです」
「その『少し』から樺太まで行った!」
「最終的にはもっと北まで行きましたね」
「そういう話じゃない!」
ライラは雲丸を指した。
「この子、まだこんなに小さいんだよ!」
少弐も雲丸を見る。
小さな手が、まだ父親の着物を握っている。
さすがに少し弱くなった。
「……そうだな」
「ジャワなんて何か月かかるの」
「まだ計算してません」
「計算するな!」
マリアがとうとう声を上げて笑った。
少弐も苦笑した。
「分かった。今すぐ行くとは言わない」
「『今すぐ』をつけない」
「……行くとは言わない」
「本当に?」
「少なくとも今日は」
「冬明!」
また雲丸がびくっとする。
「ほら、雲丸が驚く」
「誰のせい!」
その日はそこで南海の話を打ち切った。
少弐は雲丸を抱いたまま、しばらく庭へ出た。
有馬の冬はまだ寒い。
遠くへ行く必要などない。
ここには温泉があり、家族がいる。
腕の中には、生まれてまだ数か月しか経っていない息子がいる。
それでも。
部屋の中には興福寺から譲られた義浄の写本が置かれていた。
七百年前、海路で南へ向かった僧の記録。
堺では、今井宗及から南海の古寺について聞いた。
そして今日、ライラからも同じ方向を指す話が出てきた。
ジャワ。
スマトラ。
少弐は雲丸の顔を見た。
「……行かないぞ」
雲丸は答えない。
「まだな」
背後からライラの声が飛んできた。
「聞こえてる!」
少弐は笑った。
南海は逃げない。
今はまだ、雲丸と遊んでいればよかった。




