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南海を渡った僧――興福寺の一冊

天正二年二月。


堺から兵庫津へ戻った後も、少弐冬明の頭から今井宗及の言葉が離れなかった。


南海には、昔、仏法の栄えた土地があった。


爪哇。


須門答剌。


聞き慣れぬ南方の地名。


だが、まったく知らない話でもなかった。


少弐はこれまで各地を歩くたび、その土地に残る伝承や古い見聞を集めてきた。


寺へ泊まれば寺の縁起を聞き、僧に会えば古い旅の話を聞く。


弘法大師空海については、いつの間にか随分詳しくなっていた。


どこから海へ出た。


唐で何を学んだ。


どんな品を持ち帰った。


各地にどんな伝承が残っている。


遣隋使、遣唐使についても同じだった。


そんな記憶の片隅に、一人の僧がいた。


「……義浄」


どこの寺で聞いたのだったか。


それさえ、もう定かではない。


唐の僧である。


船で南へ向かい、南海のどこかで仏法を学び、さらに天竺を目指した――そんな話だった。


当時の少弐は大して気にも留めなかった。


南海と言われても、頭に浮かんだのはせいぜい、


『三国志』に出てくる蜀より、さらに南のどこか。


その程度だった。


ところが比叡山から依頼を受け、今井宗及から南海の古寺について聞いた途端、その昔話が妙に鮮明になってきた。


義浄。


南海。


天竺。


古い仏寺。


爪哇。


まるで別々だった言葉が、一つの方向を指し始めている。


少弐には、何か真理のようなものが耳元で囁いている気さえした。


「……奈良へ行こう」


そう決めた。



---


少弐が訪れたのは興福寺だった。


以前からの伝手がある。


大和大祭以来、奈良の寺院とは何度も関わってきた。


案内された少弐は、僧と向かい合うなり尋ねた。


「妙なことをお尋ねします」


「少弐殿の妙な問いには、いくらか慣れております」


「それはありがたい」


少弐は笑った。


そして本題へ入った。


「遣隋使や遣唐使について調べています」


「ほう」


「唐へ行った者ではなく、その先です」


僧が少弐を見る。


「その先?」


「海路で天竺を目指した者は、おりませんでしたか」


僧の顔つきが変わった。


「日本の僧という意味ですかな」


「いえ」


少弐は首を振った。


「唐人でも構いません。昔の僧で、船で南海へ渡り、そこから天竺へ向かった者です」


少し考えてから付け加えた。


「義浄……という名だったと思うのですが」


「ああ」


僧はすぐ頷いた。


「義浄三蔵ですな」


少弐の目が輝いた。


「やはりいた」


そこからは逆だった。


少弐が聞く側だったはずなのに、僧の方が熱心に語り始めた。


義浄は唐の僧。


玄奘とは違い、海路を選んだ。


広州から南海へ出た。


そして天竺へ直行したのではない。


途中に、仏法の盛んな国があった。


「室利仏逝という」


少弐が聞き返した。


「しつ……?」


僧が紙へ文字を書いた。


室利仏逝。


「南海の国です」


少弐はその文字をじっと見た。


「そこで義浄は梵語などを学び、それから天竺へ向かったと伝わります」


「待ってください」


少弐が止めた。


「つまり――」


自分でも確認するように言う。


「天竺から唐へ仏法が伝わっただけではない?」


「無論です」


「南の海にも仏教の国があった」


「ありました」


「しかも、天竺へ向かう僧が勉強するほどの?」


僧は頷いた。


その瞬間だった。


今井宗及から聞いた話が、少弐の中でつながった。


南海には昔、仏法が盛んだった。


商人の噂ではなかった。


少なくとも七百年以上前、その世界を実際に旅した僧が記録を残している。


「……これだ」


「何がです?」


「いえ、こちらの話です」


少弐は続きを促した。


義浄がどのような海を渡ったのか。


どこへ寄ったのか。


何を見たのか。


天竺から帰るとき、再び南海へ寄ったのか。


僧も面白くなってきたらしい。


別の僧まで呼ばれた。


古い書が出される。


『南海寄帰内法伝』。


『大唐西域求法高僧伝』。


少弐は食い入るように見た。


そして当然のように言った。


「これは……できましたら写本をいただくことは――」


そこまで言ったところで、僧が笑った。


「よろしいでしょう」


「……よろしいのですか?」


少弐の方が驚いた。


「昔、大和大祭の折には、小田殿にも佐野殿にも随分と世話になりました」


そう言って、一部の写本を用意させた。


「お持ちなされ」


さすがの少弐も、しばらく言葉が出なかった。


「これは……ありがたい」


今度は冗談を言わなかった。


きちんと座り直し、深く頭を下げた。


「大切に読ませていただきます」



---


興福寺を出るころ、少弐の荷には新しい写本が加わっていた。


しかし彼にとって重要だったのは、書物を一冊手に入れたことだけではなかった。


これまで頭の中では、


天竺――唐――朝鮮――日本


と東西に一本の線でつながっていた仏教の世界が、崩れ始めていた。


南にも道がある。


海の道だ。


唐から船で南へ。


南海の仏国へ。


そこから天竺へ。


そして七百年以上が過ぎた今、堺の南蛮商人は言う。


その南の海には、昔の寺がまだ残っている。


少弐は写本を抱えながら、ふと思った。


義浄が見た南海の仏法は、いまどうなっているのだろう。


寺は。


仏は。


人々は。


そして――


一度衰えた仏法の跡に、なお誰かが拝んでいる仏が残っているとしたら。


比叡山が求めているものは、案外そこにあるのではないか。


少弐はまだ知らなかった。


室利仏逝がどこなのかすら、正確には分かっていない。


だが、その日の彼には一つだけ確信めいたものがあった。


探すべき海は、唐へ向かう海だけではない。


南にもある。

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