三牛策、二牛策へ
三牛策、二牛策へ
秋が深まるにつれ、牛問診団の記録には明らかな違いが現れ始めた。
坂東牛は変わらず北浦の草を食み、穏やかに冬支度を進めている。
そして韓牛は、幹永の予想を上回る適応力を見せた。
朝晩の冷え込みにも食欲は衰えず、人にもよく慣れ、体調を崩す個体も少ない。
幹永は何日も帳面を見返し、牛問診団の報告を照らし合わせた末、静かに口を開いた。
「韓牛は北浦の土地に合う。」
その一言で方針は定まった。
氏治へ書状を送り、韓牛の継続的な輸入と、坂東牛との計画的な交配を正式に願い出たのである。
「韓牛は坂東牛を強くする礎となります。若い雄牛・雌牛を毎年迎え入れ、北浦で繁殖と交配を進めたく存じます。」
氏治もこれを快諾し、鹿島衆へ韓牛の継続輸入を命じるとともに、朝鮮から牛の飼育や繁殖に詳しい者を北浦へ招くよう指示した。
一方、水牛は依然として将来性こそ大きいものの、寒さへの対応という課題を抱えていた。
牛舎の改良、防風林の整備、水牛街道による運動、冬季飼料の研究を続けながら、まずは北浦で安定して育てられる方法を探ることを優先する。
こうして幹永は方針を改めた。
当初掲げた「三牛策」は、韓牛が予想以上に北浦へ適応したことで、新たな段階へ入る。
当面の柱は、坂東牛と韓牛を繁殖・交配して新たな坂東牛を育てること、そして水牛の飼育法を確立すること。
すなわち、北浦の牛改良は「坂東牛・韓牛」と「水牛」の二本立てへと舵を切ったのであった。




