北浦三牛策
幹永は牛問診団の知識を集め、ようやく一つの結論にたどり着いた。
牛は、すぐには使えない。
革を取れるほど大きく育つまで、およそ五年はかかるのである。
幹永はすぐに氏治へ書状を送った。
「北浦にて牛を育て、革を安定して得るには五年を要します。その間は鹿島の交易に頼り、明・朝鮮・シャムより牛革、水牛革、生皮、なめし革をお集めくだされ」
さらに幹永は、代替策も添えた。
「また、小田領内にて鹿狩りを奨励されるべきにございます。鹿革は牛革ほど大きく厚くはありませんが、軽くしなやかで、楯の補助材、弓具、手袋、靴、革袋には十分に使えます」
氏治はこの進言を受け、当面の坂東楯には交易革と鹿革を併用することを認めた。
一方で幹永は、北浦に集められるだけの牛を集めた。坂東各地の農家、寺社、豪族から牛を買い上げ、体格、気性、病への強さを牛問診団に調べさせた。
そして北浦の水辺と平地に放ち、坂東牛として育て始めた。
同時に、氏治が連れてきた韓牛にも目を向ける。
「いずれは坂東牛と交配させ、大きく丈夫な牛を作る」
そのために韓牛は別に飼い、成長、肉付き、革の厚さ、気性を細かく記録した。
さらに、鹿島がシャムより連れてきた水牛は、幹永を驚かせた。
体は大きく、力は強く、革も厚い。寒さには弱いが、北浦の水辺と湿地を活かせば使い道はある。
幹永は水牛も研究対象に加えた。
こうして北浦の牛改良は、三つの柱で進むことになる。
坂東各地から集めた在来の牛を増やす坂東牛。
将来の交配を見据えて育てる韓牛。
厚い革と強い力を持つ水牛。
幹永はこれを「北浦三牛策」と呼び、牛問診団とともに記録を積み重ねていった。
五年後には坂東の盾を坂東の牛で作る。
その静かな決意のもと、北浦では牛たちの群れが少しずつ増え始めていた。




