静かな研究者
真壁幹永は、兄・幹久と同じく鹿島神宮で槍術を学び、一人前の武士として育った。
しかし、その気質は兄とは対照的だった。
幹久がまず行動し、経験の中から道を切り開く人物ならば、幹永はまず考え、観察し、記録を積み重ねて答えを導く人物である。
坂東評定で兄から命じられたのは、北浦における牛の改良と琉球芋の栽培であった。
幹永は最初に兄の残した記録を読み返したが、牛についての資料は驚くほど少なかった。兄は開墾、豚の改良、石岡の屠殺場や加工場の整備など数多くの事業を抱えており、牛にまで十分な時間を割く余裕がなかったのである。
「ならば、自分が最初から積み上げよう。」
そう決意した幹永は、まず北浦の自然を生かすことから始めた。
北浦は豊かな水辺と広い平地に恵まれ、牛を放牧するには理想的な土地だった。幹永は牛をできるだけ自由に放し、何を好んで食べるのか、どこで休むのか、群れの序列や病気の傾向まで、一つひとつ観察して帳面へ記していった。
そして、自分一人の知恵では限界があると悟ると、牛飼い、農夫、薬草に詳しい者、獣の手当てができる者などを身分に関係なく招き集めた。
この少し変わった家臣団は、「牛問診団」と名付けられた。
彼らは牛の体格や毛並み、歩き方、食欲、病の兆候を日々調べ、記録し、どの牛を繁殖に回すべきかを話し合う、坂東でも類を見ない研究集団となっていった。
やがて氏治の「牛革を坂東楯に用いたい」という方針が北浦にも伝えられる。
幹永は欲張らず、当面の目標を一つに絞った。
「まずは革を得るための肉牛を育てる。」
乳牛や役牛の改良は後回しとし、体が大きく、丈夫で病に強い牛だけを繁殖に用いることを決めた。
牛問診団は体高や胴回り、成長の速さなどを細かく記録し、大柄な牛だけを選抜して系統を育てていく。
一頭でも大きな牛を育てることが、大きく丈夫な革を生み、氏治が目指す坂東楯を支えることにつながると考えたのである。
さらに氏治が交易によって連れてきた朝鮮半島の韓牛や、明から渡来した牛にも幹永は着目した。
しかし、すぐに坂東牛との交配は行わなかった。
「まずは異国の牛そのものを知る。」
韓牛と明牛は別々の牧場で飼育し、頭数を増やしながら体格、成長、病への強さ、肉質、革の厚さなどを詳しく調べた。
実際に肉を食べ、革を加工し、その特性を理解した上で、将来の品種改良に役立てようと考えたのである。
兄・幹久が現場を切り開く開拓者ならば、幹永は知識を積み重ねる研究者だった。
北浦では今日も牛たちが広い草地を歩き、その傍らでは牛問診団が静かに筆を走らせている。
その地道な観察と記録は、後に坂東一円へ広がる牛改良の礎となり、坂東楯を支える良質な牛革と、新たな坂東肉牛を生み出す第一歩となっていくのであった。




