海辺の悪いカムイ
午後三時を回ったころだった。
少弐たちは、とうとう海岸まで出てしまった。
冷たい潮風が吹きつける。
少弐は海を見た瞬間、胸の奥に嫌なものを感じた。
「……ここまで来たか」
熊の足跡は消えていない。
むしろ海岸へ出てから、行動の跡ははっきりしていた。
「冬明」
エカシロが低い声で呼ぶ。
少弐も見つけた。
熊がいた。
浜に置かれた船具のあたりを荒らしている。
漁に使う網を引きずり出し、噛み、ひっくり返し、そこに残った魚の臭いを探しているらしい。
食べ物そのものではない。
だが、網には魚の臭いが染みついている。
少弐は身を低くした。
「やっぱり腹が減っている」
肩を見る。
「あれだ」
矢がある。
ペナウシコタンで射込まれた矢を肩に残した、小柄な成獣。
間違いなかった。
ここで逃がせば、その先には人がいる。
漁具を荒らすところまで人間の生活圏へ入ってきた熊が、次に何をするかは分からない。
少弐は振り返った。
「……来た」
人影があった。
途中に残してきた矢印を追って、ペナウシコタンの戦士たちが到着したのである。
ただし少ない。
本隊ではない。
足の速い者を先に走らせた先行組だった。
その中にエカシロもいた。長へ知らせたあと、そのままペナウシの男たちを案内して追いついたのである。
一人が熊を見るなり表情を変えた。
「あいつだ」
肩の矢を見ていた。
「間違いない」
少弐は人数を数えた。
十分とは言えない。
「後ろは?」
「来ている。だがまだかかる」
待つべきか。
少弐は海岸を見る。
熊はすでに船と網を荒らしている。
そして、この海岸からコタンまでは遠くない。
「……待てないな」
ペナウシの戦士も頷いた。
「ここで山へ戻るならまだいい。コタンの方へ走られたら困る」
少弐はライラを見る。
「後ろへ」
当然、ライラは不満そうな顔をした。
「私は戦える」
「知っている。だから頼む」
少弐は犬を見る。
「犬を連れて下がってくれ。シレトクも一緒に。後続をここへ連れてくるんだ」
「冬明」
シレトクが言った。
「本当にやるのか」
「ここで逃がしたら、今度はどこの家へ行くか分からん」
ライラは少弐を睨んだ。
だが今度は言い争わなかった。
「死ぬな」
「そのつもりだ」
ライラとシレトクは犬を連れ、後続との合流へ下がった。
残った少弐とエカシロ、そしてペナウシの男衆が散開する。
完全に囲むのではない。
互いの位置を確かめながら、少しずつ輪を狭める。
熊が気づいた。
網から顔を上げる。
「来るぞ」
男たちが弓を構えた。
熊が動く。
矢が飛んだ。
一本。
外れる。
もう一本。
熊は見た目以上に速かった。
小柄な身体を低くして駆け、向きを変える。
一本が胴へ当たった。
だが浅い。
「駄目だ!」
さらに矢が飛ぶ。
当たる。
だが止まらない。
少弐はそこで悟った。
このまま全員が遠巻きに射続ければ、熊は包囲の薄いところを見つける。
抜けられる。
ならば――。
「こっちだ!」
少弐が輪から一歩出た。
「冬明!」
エカシロが叫ぶ。
少弐は杖を両手で握った。
もはや杖ではない。
槍を扱ってきた少弐にとっては、穂先のない槍だった。
「おおおおおっ!」
大声を上げる。
杖を大きく振った。
地面を叩く。
さらに吠える。
「こっちを見ろ!」
熊の頭が動いた。
少弐を見る。
その瞬間、周囲の音が遠くなったように感じた。
熊が身体を低くした。
少弐には分かった。
来る。
「冬明、動くな!」
誰かが叫んだ。
動けと言っているのか、動くなと言っているのかさえ分からなかった。
少弐は杖を構える。
槍なら。
そう思った。
これが槍なら、もう少し安心できた。
だが手にあるのは杖である。
熊が少弐だけを見た。
少弐も熊を見る。
一瞬。
ほんの一瞬だけ――両者が止まった。
それで十分だった。
「今だ!」
弦が鳴った。
一本の矢が熊へ突き立つ。
続いてもう一本。
そして――
轟音。
エカシロの単筒だった。
至近の銃声に熊の身体が大きく崩れる。
それでも完全には止まらない。
少弐へ向かおうと前脚を踏み出した。
もう一度、矢が飛ぶ。
熊の身体が傾いた。
倒れる。
砂浜を掻いた。
そして――動かなくなった。
誰もすぐには近づかなかった。
少弐も杖を構えたままだった。
荒い息だけが聞こえる。
エカシロが単筒を握ったまま言った。
「……冬明」
返事がない。
「冬明!」
「聞こえている」
「なら返事をしろ!」
「すまん」
ようやく少弐が杖を下ろした。
膝が少し震えていた。
ペナウシの戦士たちが慎重に熊を確認する。
やがて一人が振り返った。
「終わった」
誰も歓声を上げなかった。
ペナウシの老人を襲った熊である。
彼らにとっては単なる獲物でもない。
肩には、最初にペナウシで射込まれた矢が残っていた。
一人の戦士がそれを見つめる。
「……やっぱり、こいつだった」
少弐も近づいた。
山で新芽を探し、
川へ下り、
魚を探し、
何も得られず、
最後には海辺まで来て、人の網を荒らしていた。
少弐は熊をしばらく見つめた。
「腹が減っていただけなのかもしれんな」
エカシロが答える。
「それでも人を襲った」
「ああ」
それは変わらない。
少弐は杖を砂へ突いた。
遠くから犬の声が聞こえた。
後続が来る。
ライラたちだ。
少弐はその方向を見て、ようやく大きく息を吐いた。
そしてエカシロが横から言った。
「お前、さっき何と言った」
「何が?」
「俺は杖を槍みたいに使う、だったか」
「ああ」
「本当に山のカムイの前でやる奴があるか」
少弐は返す言葉がなかった。
おそらくライラが到着したら、同じことをもっと厳しく言われる。
少弐は倒れた熊を見てから、ぽつりと言った。
「……単筒をライラに渡さなければよかったな」
「今さら遅い」
海岸には、乾いた笑いが少しだけ戻った。




