坂東の外へ――1571年正月大評定
1571年正月 鹿島
新年を迎えた鹿島には、例年とは違う緊張があった。
評定のために集められた顔ぶれからして、通常の領国経営を話し合う席ではなかった。
畿内担当――佐野昌綱。
関東諸将の取りまとめ役――結城朝基。
会津より――宇都宮朝綱。
海事奉行――大掾義康。
そして北方外交使節――少弐冬明。
上座には小田氏治が座る。
広間の中央には、机では収まりきらないほどの地図が広げられていた。
西は四国。
東は坂東。
そこから奥州沿岸を北上し、津軽海峡を越え、蝦夷地へ。
さらにその先には、前年まで小田家の誰も詳細を知らなかった樺太が描かれている。
しかも単なる輪郭ではない。
山地。
河川。
海岸線。
港に使えそうな湾。
コタン。
航路。
潮の流れ。
少弐たちが実際に歩き、船で測り、現地の人々から聞き取った情報をもとに作られた立体地図だった。
佐野がしばらくそれを眺めてから言った。
「……正月に見る物ではないな」
結城が笑う。
「めでたいではないか。去年より世界が広くなった」
「広くなりすぎだ」
氏治が口を挟んだ。
「俺もそう思う」
評定が始まった。
最初の議題は外交だった。
朝鮮。
前年までの交渉によって、小田家と朝鮮王家との関係は、単なる商人同士の往来から一段進んだ。
公式な外交窓口ができた。
対馬を経由して朝鮮へ至る道筋も整った。
そして、その対馬と五島についても大友との交渉を経て、小田側の領有が認められている。
次に琉球。
こちらも航海による接触だけでは終わらなかった。
港の利用。
交易。
相互の安全。
南方へ向かう窓口ができつつある。
佐野が腕を組んだ。
「つまり西では朝鮮と琉球か」
「西というより、海ですな」
大掾義康が訂正した。
そして、その大掾から海軍について報告が行われた。
坂東フリガッタ。
新しい小型高速軍船は、図面の上だけの船ではなくなっていた。
四国から坂東へ。
坂東から奥州へ。
さらに津軽まで。
実際に日本列島の太平洋岸を長距離航行させた。
外洋航行能力。
帆走性能。
補助櫂の有効性。
各地での修理性。
補給量。
乗員の疲労。
そして海況による速度変化。
実際の航海によって大量の記録が集められていた。
「戦に使えるか」
佐野が尋ねる。
大掾は答えた。
「使えます。ただし――」
地図上の四国から津軽までを指でなぞった。
「戦にしか使わぬのは惜しい船です」
今度は結城が反応した。
「兵を運ぶか」
「人も、書状も、品も」
大掾は言った。
「坂東から津軽まで、同じ海の道として考えられます」
そこで少弐が立った。
いよいよ北方調査の報告だった。
蝦夷地。
宗谷。
樺太。
少弐の指が北へ進むにつれ、広間が静かになっていく。
現地の人々。
交易品。
航行可能な季節。
危険な海域。
北へ延びる交易の情報。
そして、探していた一角の海獣について。
「結論から申し上げます」
少弐は言った。
「見つかっておりません」
氏治がうなずく。
すでに一度聞いている話である。
「しかし、いない場所は分かりました」
少弐の指が樺太北部へ達する。
そして――止まらない。
そのさらに北。
地図の余白を指した。
「次は、この先です」
佐野が呆れた顔をする。
「まだ行くのか」
「そのために帰ってまいりました」
「お前も大概だな」
ところが宇都宮朝綱は、別のところを見ていた。
「少弐」
「はい」
「その話より、こちらを聞きたい」
指したのは津軽だった。
話題が変わる。
津軽。
そして葛西。
今回の北方航海では、交易や寄港を通して、それまで断片的だった両地域の内部事情も見えてきた。
南部の支配下にありながら独自性の強い津軽。
北方交易に直接接続できる位置にあり、その利益に敏感な勢力。
そして南では葛西。
周囲の大勢力に挟まれながら、海へ出口を持つ。
少弐は慎重に言った。
「味方とは申しません」
結城がうなずく。
「それでよい」
「ただし――」
少弐は津軽と葛西を順に指した。
「小田と結ぶことで利益が生じる状況になれば、話を聞く者はおります」
宇都宮が静かに答えた。
「それを内応の芽という」
佐野が笑った。
「会津にいると物騒になるな、朝綱」
「畿内にいるお前には言われたくない」
ようやく広間に笑いが戻った。
そして最後。
評定の場へ、実物が運び込まれた。
毛皮。
乾燥させた海産物。
昆布。
魚油。
北方の木材。
樹皮製品。
細工物。
津軽で加えられた産物。
葛西領を経由した品々。
さらに比較のため、坂東から北へ持っていった酒、鉄製品、布なども並べられる。
昨年十二月、《希望》が鹿島へ持ち帰った品々だった。
佐野が毛皮を持ち上げた。
「これが売れるのか」
少弐が答えるより先に大掾が言った。
「売る場所によります」
結城が続ける。
「ならば、売る場所を作ればよい」
氏治は黙っていた。
目の前には朝鮮との外交文書。
琉球との約定。
五島と対馬。
坂東フリガッタの航海記録。
樺太までの立体地図。
津軽と葛西からもたらされた情報。
そして北方交易品。
一つ一つは別々の政策として始まったものだった。
氏治が地図の前へ出る。
四国を指した。
そこから指を北へ滑らせる。
紀伊。
坂東。
鹿島。
気仙沼。
津軽。
蝦夷地。
樺太。
次に西へ視線を移す。
五島。
対馬。
その向こうに朝鮮。
さらに南には琉球。
「妙だな」
氏治が言った。
「何がだ?」
結城が尋ねる。
氏治は地図を見たまま答えた。
「俺たちは天下を取るつもりなどない」
誰も答えない。
それは小田家が長く掲げてきた姿勢だった。
「なのに――」
氏治の指が、日本列島ではなく、その周囲の海をなぞる。
「天下の外ばかり広くなっていく」
少弐が小さく笑った。
宇都宮も地図を見る。
佐野は腕を組み、大掾は海岸線を見つめ、結城はしばらく考えていた。
やがて結城が言った。
「ならば、それでよいのではないか」
氏治が振り返る。
「坂東を守るために、坂東だけを見る必要はない」
広間が静かになった。
征服するための地図ではない。
海の向こうまで領土にするための地図でもない。
どこと結び。
何を運び。
どこを通り。
誰と戦わずに済ませるか。
そのための地図だった。
1571年正月。
鹿島に集められたものは、あまりにも多かった。
朝鮮外交。
琉球外交。
五島・対馬。
新型艦。
奥州。
津軽。
蝦夷。
樺太。
そして北方交易。
だが、それらを一枚の地図に置いてみれば、一つの形が見え始めていた。
陸で天下を求めず、海によって坂東の外と結ぶ。
小田家が意図せず歩み始めた、新しい道であった。




