冬の海を逃れて ―― エカシロ一家、「希望」へ
北樺太で翌春の約束を取りつけた「希望」は、船首を南へ向けた。
北へ向かっていたときとは、船の空気が違う。
もう調査をする季節ではない。
冬が来る。
九月半ばを過ぎた北の海では、寄り道の一日がそのまま危険につながりかねなかった。
少弐たちは寄港を最低限にし、まず樺太東岸を南下した。
最初の目的地は、ハウキの暮らすコタンだった。
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ハウキは北上の途中から一行に加わり、さらに北の土地について多くを教えてくれた。
だが、最初から約束していた。
帰りには必ず故郷へ送り届ける、と。
「希望」が海岸へ近づくと、ハウキは自分の荷物をまとめた。
少弐も甲板へ出た。
「ずいぶん遠くまで付き合わせたな」
ハウキは笑った。
自分で来たのだから気にするな、というように手を振る。
少弐にとって、ハウキが教えてくれたものは地理だけではなかった。
どのコタンへ行けばいいのか。
誰に最初に話しかければいいのか。
何を贈れば喜ばれるのか。
さらに北へ行くなら、どの季節を選ぶべきなのか。
地図には描けない「北の歩き方」を教えてくれた。
少弐は最後に礼を渡した。
そして言った。
「来年、また北へ行く」
ハウキは少しも驚かなかった。
むしろ、やはりそうするのかという顔で笑った。
少弐は北を指す。
「今度はもっと先だ」
ハウキは何かを言い、シレトクが笑いながら訳した。
「一角竜に会うまで帰らないつもりか、だってさ」
「いや、ちゃんと帰る。そのためにお前を今ここへ返しているんだ」
皆が笑った。
ハウキは岸へ降りた。
迎えに出てきた人々の中へ歩いていく。
最後に一度振り返り、大きく手を上げた。
少弐たちも手を振った。
やがて「希望」は岸を離れた。
ハウキとの旅は、ここでいったん終わった。
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そこからさらに南へ。
「希望」は急いだ。
シレトクは変わらず一行に同行している。
彼は雇われた身であり、この旅が終われば今後どうするかを自分で決めることができる。
そしてもう一人。
エカシロも当然のように船に乗っていた。
少弐たちは、この時点ではまだ、エカシロについてもシレトクと大きく変わらないと思っていた。
ところが南樺太まで戻り、以前訪れたシララオロのコタンへ着いたところで、それが変わった。
船を降りたエカシロが言った。
「ちょっと待っていろ」
それだけだった。
少弐はてっきり、長のトゥレシパへ帰還の挨拶でもしてくるのだと思った。
「分かった」
と答えた。
ところが、なかなか戻ってこない。
マリアが荷の確認を終えても戻らない。
イネスが水と食料の補給について相談を始めても戻らない。
ライラが、
「何してるの、あの人」
と言い始めたころだった。
ようやくエカシロが戻ってきた。
一人ではなかった。
女がいる。
その横には男の子。
さらに女の子。
しかも荷物まで持っている。
少弐はしばらく黙って眺めた。
マリアも同じだった。
イネスが最初に口を開いた。
「……誰?」
エカシロは何でもないことのように答えた。
「妻」
続いて子供たちを指す。
「息子。娘」
少弐は目を瞬いた。
「いや、それは分かった」
エカシロは頷いた。
「そうか」
「そうか、ではなくてだな」
少弐は一家の荷物を見る。
明らかに見送りに来た人間の荷物ではない。
「その荷物は何だ」
エカシロは不思議そうに少弐を見た。
「乗るから」
「何に」
エカシロは「希望」を指した。
「船」
少弐は言葉を失った。
ライラが吹き出した。
マリアまで笑い始める。
少弐だけが状況についていけない。
「待て待て。お前、家族ごと来るのか?」
「そうだ」
「聞いてないぞ」
「今言った」
「そういう問題ではない」
エカシロはまったく動じなかった。
後ろにいる妻も、子供たちも、すでに出発するつもりらしい。
少弐はシレトクを見る。
シレトクも肩をすくめる。
そこで少弐は一番重要なことを聞いた。
「長には話したのか?」
エカシロは即答した。
「話した」
「許してくれたのか?」
「もらった」
そして、さも当然のことのように言った。
「さあ、行こう」
少弐はしばらく何も言えなかった。
やがて頭を掻いた。
「……お前という男は」
しかし断る理由もなかった。
エカシロはこの旅で北方の交易について多くの知識を提供してくれた。
来年さらに北へ向かうなら、その知識はますます必要になる。
何より本人は、一時的に雇われるつもりではなかったらしい。
家族ごと、新しい生活へ移るつもりだった。
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こうしてエカシロ一家は「希望」に乗り込んだ。
妻。
息子。
娘。
そしてエカシロ。
船室の一角が一家の生活場所として割り当てられた。
昨日まで探検船だった「希望」に、突然家族が暮らし始めた。
子供たちは最初こそ船内を珍しそうに眺めていたが、慣れるのは早かった。
マリアは船長として船内で守るべきことを教える。
イネスは子供たちの体調を確認する。
ライラは娘に妙に懐かれた。
シレトクはそれを見ながら笑っている。
少弐は少し離れたところから、その光景を眺めていた。
旅の始まりには想像もしなかった。
ポルトガル人の航海士。
剣士。
医師。
和人の外交使節。
アイヌの案内人。
そして今度は、その家族。
「希望」は少しずつ、単なる船ではなくなっていた。
人が暮らし、人が出会い、また新しい人間が加わっていく場所。
一つの小さな共同体になり始めていた。
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だが感慨に浸っている時間はなかった。
季節はすでに十月へ入っていた。
目指すは室蘭。
シララオロを出た「希望」は、可能な限り寄港を減らした。
天候がよければ進む。
水と食料が必要なら寄る。
風が悪ければ無理をしない。
だが調査のために何日も滞在することは、もうなかった。
冬が後ろから追ってくる。
海の色も、北上したころとは違う。
朝、甲板へ出れば息が白い。
風が強い日は、手袋なしでは縄を握るのも辛くなった。
イネスは何度も言った。
「これ以上遅れていたら危なかったわね」
マリアも否定しなかった。
少弐は北樺太で引き返した判断が正しかったことを、帰路になって実感していた。
一角竜を追うのは来年でいい。
命まで賭ける必要はない。
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数日をかけて「希望」は南へ走った。
そして十月半ば。
ようやく室蘭の海が見えた。
「見えた!」
声が上がる。
甲板へ人が集まった。
少弐も出る。
室蘭。
今回の旅を始めるときには、単なる寄港地の一つにすぎなかった土地。
しかし今は違う。
ここで冬を越す。
シレトクの縁もある。
エカシロ一家もいる。
船を休ませることができる。
人も休める。
北方で集めた膨大な記録も整理できる。
そして来春、ここから再び北へ出ることができる。
少弐は大きく息を吐いた。
「ぎりぎりだったな」
マリアが隣で頷く。
「あと半月遅かったら、私は北樺太まで行くって言った人を恨んでたかもしれない」
「俺か?」
「他に誰がいるの」
ライラが笑った。
イネスも珍しく声を上げて笑う。
その後ろでは、エカシロが妻や子供たちに室蘭の方を指して何か話していた。
彼らにとっても、ここから新しい生活が始まる。
少弐はその一家を見てから、北の空を振り返った。
今回、一角竜は見つからなかった。
だが樺太を北端まで調べた。
北方交易の品を手に入れた。
さらに北へ続く道について聞いた。
翌春の案内人との約束も取りつけた。
そして一人の男が、家族ごと「希望」の仲間になった。
十分だった。
「今年は終わりだ」
少弐が言った。
ライラが聞く。
「来年は?」
少弐は北を指した。
「この続きだ」
「希望」はゆっくりと室蘭へ入っていった。
十月半ば。
冬が北の海を閉ざし始める、ほんの少し前。
一行はようやく、今回の北方調査を終えた。
そして船上では、エカシロの子供たちが初めて見る室蘭の港を眺めていた。
北への旅は終わった。
だが「希望」という船の旅は、この帰還によって、むしろ以前より大きなものになり始めていた。




