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北の果てに結ぶ約束 ―― 北樺太、最後のコタン

九月も半ばを過ぎるころ、一行はついに今回の旅で最も北の土地へ達した。


案内人に導かれながら海岸線を慎重に進んできた「希望」は、北樺太の海岸に静かに錨を下ろした。


ここまで来ると、南で見てきた樺太とは景色が違った。


海から吹きつける風には、すでに冬の気配が混じっている。低い森の向こうには湿地と川が広がり、見渡す限り人家らしいものは少ない。


そして北には、まだ陸と海が続いている。


少弐は甲板からしばらくその方角を眺めていた。


ここより先にも人がいるという。


さらに遠くには、もっと寒い海がある。


だが今回は、ここまでだった。


「欲を出すところではないな」


少弐が言った。


案内人も頷いた。


これ以上北へ進めば、帰路で天候が崩れる危険が急激に高くなる。未知の土地へ進むなら、十分な情報と案内人を揃え、春を待って改めて出るべきだった。


少弐も異論はなかった。


目的は、誰より遠くまで行くことではない。


道を作り、帰ってくることだ。


一行は案内人に伴われ、北樺太のコタンへ向かった。


ここが今回の調査における、最終到達地点となった。


---


コタンへ入った当初、人々は遠巻きに一行を眺めていた。


見慣れない船。


和人。


さらにマリア、ライラ、イネスという異国の女たち。


しかし案内人が、彼らが南から交易をしながら北上してきた者たちであることを説明すると、やがて一行は長のもとへ通された。


少弐はまず酒を出した。


これまで贈答に使ってきた日本酒ではない。


もっと強い酒だった。


北へ行くほど寒くなるのだから強い酒が喜ばれるのではないか――そんな旅の途中で出た話を覚えていて、アクアビットなどの蒸留酒をいくらか残していたのである。


小さな杯に注いで長へ差し出す。


長はまず匂いを嗅いだ。


少し怪訝そうな顔をする。


それから一口。


途端に目を大きくした。


周囲から笑いが起こった。


少弐も笑う。


言葉が完全には通じなくても、酒を飲んだときの顔なら分かる。


長はもう一度杯を眺め、それから少弐を見て笑った。


最初にあった緊張が、少しずつ消えていった。


そして少弐は、もう一つの贈り物を取り出した。


布に包まれた長物だった。


包みを開く。


現れたのは、坂東で鍛えられたサーベル。


西洋の曲刀を参考にしながら坂東の鍛冶が仕上げたもので、柄と鞘には少弐の家門が小さく刻まれていた。


少弐は鞘から少しだけ刃を抜いて見せる。


それから鞘へ戻し、両手で長へ差し出した。


「これは売り物ではありません」


通訳を介して伝える。


少弐はサーベルに刻まれた家門を指した。


続いて自分の胸を指す。


「冬明」


もう一度、紋を指す。


そして北を指してから、一年を示すように身振りを交えた。


「来年、また来ます」


長は少弐を見た。


サーベルの家門を見る。


再び少弐を見る。


やがて意味を理解したらしい。


少弐を指し、次にサーベルの紋を指す。


同じもの。


少弐が頷いた。


長も大きく頷いた。


文書は必要なかった。


来年、同じ紋を持つ男が現れる。


それだけ覚えてもらえればいい。


これは武器の贈答であると同時に、再会の証だった。


---


話は自然と翌年のことへ移った。


少弐は今回同行してくれた案内人にも向き直る。


「来年の春――海を使えるようになったころ、もう一度ここへ来たい」


そして北を指した。


「そのときは、もっと北へ行く」


案内人は少し考え込んだ。


どこまで行くつもりなのか。


そんな顔だった。


そこで少弐は、イネスに描いてもらっていた絵を広げた。


一枚目。


長い一本の螺旋状の牙を持った鯨。


二枚目。


巨大な牙を持つセイウチ。


三枚目。


密な毛を持つラッコ。


一角の鯨については反応が鈍かった。


知らない者もいる。


聞いたことがあるという者もいた。


遠くから牙だけが運ばれてくることがあるらしい、と話す者もいる。


セイウチについては、さらに北の土地から牙が来ることを知る者がいた。


そしてラッコには、もっと明確な反応があった。


少弐はそれで十分だった。


一角竜そのものがここにいなくてもいい。


重要なのは、


「どちらへ行けば、それを知る人間に会えるのか」


である。


「来年、その道を教えてほしい」


少弐が頼んだ。


案内人は承知した。


長もまた、翌年ここへ来るよう少弐へ告げた。


今回の北上で得た最大の成果は、珍しい品物ではなかった。


来年もここへ来てよいという約束。


そして、


ここから先へ進むための案内人との約束。


それこそが、少弐が求めていたものだった。


---


翌朝。


今度は長の側から贈り物が届けられた。


最初に広げられた毛皮を見て、マリアの表情が変わった。


指を毛の中へ沈める。


非常に密だった。


「これ……ラッコよ」


少弐も触ってみる。


驚くほど柔らかい。


そして暖かい。


「これはいいな」


「いいなんてものじゃないわ」


マリアは毛皮を裏返して状態を確認した。


すっかり商人の娘の顔になっている。


「これだけ密な毛皮なら、欲しがる人はいくらでもいる」


もう一つ。


大きな牙が運ばれてきた。


イネスが最初、


「象牙?」


と首を傾げる。


しかしマリアはすぐに違うと言った。


「セイウチ」


少弐は両手で持ち上げてみた。


ずしりと重い。


南方から来る象牙とは違う。


しかし、これもまた加工次第では価値のある材料になる。


一角竜の角を求めて北へ来た。


ところが、その一角竜を見つける前に、


別の北方の富を二つも見つけてしまった。


少弐は思わず笑った。


「一角竜を見つける前に、商売を見つけたらしいな」


マリアも笑った。


「あなた、だんだん商人らしくなってきたわね」


「俺は外交使節だ」


「商人はみんなそう言うのよ」


---


それから数日間、一行はコタンに滞在した。


今回の調査のため「希望」に積んできた交易品は、ここで一度ほとんど交換してしまうことになった。


鉄器。


刃物。


針。


布。


漆器。


酒。


小さな鏡。


ガラス製品。


その他、南から運んできた品々。


最初は少人数だった。


しかし交易が始まったことが伝わると、周辺からも人がやってきた。


いつしか「希望」の周囲は、小さな市のようになっていた。


代わりに集まってきたものは多種多様だった。


毛皮。


乾燥させた魚。


海獣から採った品。


牙。


骨角器。


衣類。


北方独特の細工物。


さらに、ここで作られたものではないと思われる品もあった。


誰かが別の土地から持ってきたもの。


それがまた別の人間へ渡り、このコタンまで来たのだろう。


マリアは品物を分類した。


イネスは珍しいものを見つけるたびに画帳へ描いた。


ライラは護符や宗教的な意味を持つらしい品に興味を示し、身振りを交えながら由来を聞いて回った。


そして少弐が調べていたのは、値段だけではなかった。


「これはどこで採れる?」


「誰が持ってくる?」


「いつ来る?」


「何と交換する?」


「もっと北では何が手に入る?」


一つ一つ聞いた。


少弐にとって本当に価値があるのは、目の前の毛皮一枚ではない。


その毛皮がここへ来るまでに通った道だった。


北には北の交易がある。


集落から集落へ。


人から人へ。


海岸から川へ。


川からまた海へ。


日本の商人が知らない巨大な流れが、この土地には存在している。


それを少弐たちは、ようやく入口から覗き始めていた。


---


数日後。


「希望」の船倉は、往路とはまったく違う姿になっていた。


持ってきた交易品の大半はなくなっている。


代わりに積まれているのは、


北方の毛皮。


牙。


海獣製品。


乾燥させた海産物。


工芸品。


そして各地から流れてきた交易品。


量そのものは、まだ商売と呼べるほどではない。


少量ずつだった。


だが、それでよかった。


今回は利益を出すための航海ではない。


何を持ってくれば、何が手に入るのか。


それを確かめるための調査だった。


少弐は船倉を見回した。


「全部持って帰ろう」


マリアが振り返る。


「鹿島まで?」


「ああ。一度、坂東へ持って帰る」


少弐はラッコの毛皮を指した。


「職人に見せる」


次にセイウチ牙。


「これは加工させる」


海産物。


「食えるものは料理人に渡す」


その他の品々。


「商人には値をつけさせる」


少弐は笑った。


「北の人間が欲しがるものと、坂東の人間が欲しがるもの。その両方が分からなければ交易にはならん」


マリアは頷いた。


単なる珍品収集ではない。


この船倉いっぱいの品物そのものが、


北方交易の可能性を調べるための巨大な見本帳


なのである。


---


出航の日。


コタンの長は海岸まで見送りに来た。


その腰には、少弐が贈った坂東サーベルがあった。


少弐を見ると、長はその柄を軽く叩いた。


そこには少弐の家門がある。


そして長は、覚えた言葉を口にした。


「来年」


少弐は笑った。


自分の胸を叩く。


「来年」


そして北を指した。


長も同じ方向を見た。


次に来るときは、このコタンが終点ではない。


ここが出発点になる。


案内人とも改めて約束を交わした。


翌春。


海と雪の様子を見ながら、さらに北へ。


どこまで行けるのかは、まだ誰にも分からない。


---


「希望」が岸を離れた。


北樺太の海岸が少しずつ小さくなっていく。


甲板ではマリアが積荷帳を確認していた。


「ずいぶん持って帰ることになったわね」


少弐は海岸を眺めたまま答えた。


「全部、見本だ」


「見本?」


「ああ」


少弐は振り返った。


「これを持って帰れば、来年何を積んでくればいいか分かる」


そしてもう一度、北を見た。


その先には、まだ知らない海がある。


まだ知らない民族がいる。


そして、どこかには一本の長い牙を持つ鯨がいるかもしれない。


だが、急ぐ必要はない。


今年はここまで来た。


人と会った。


交易した。


そして、


「また来い」


と言ってもらえた。


それで十分だった。


「来年は――」


少弐が呟く。


「今度は、買い物だけじゃない」


北の水平線を見据える。


「道を探しに来よう。」


こうして今回の北上調査は、北樺太を最終地点として終わった。


しかし「希望」の船倉いっぱいに積み込まれた北方の富と、北のコタンに残された家門入りの一本の坂東サーベルは、


次の航海がすでに始まっていることを示していた。

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