北の果てを前に――帰路を決める評定
北の果てを前に――帰路を決める評定
九月も半ば。
希望は樺太の海岸をさらに北へ進んでいた。
風は冷たくなり、朝になると甲板へ出た者の吐く息が白く見えることさえあった。
いよいよ、この旅も終点が近い。
少弐は夕食後、いつもの船室へ皆を集めた。
中央には、石と粘土で作られた模型がある。
最初は蝦夷地南部と南樺太しかなかった模型も、今では細長く北へ伸びている。
シレトク。
エカシロ。
ハウキ。
そして訪れたコタンの人々。
皆の記憶を少しずつ重ねた結果だった。
少弐は模型の最北端を指した。
「今回の旅は――ここで終わりにします」
シレトクがエカシロとハウキへ伝える。
二人とも異論はなかった。
むしろハウキは当然というように頷いた。
これ以上北へ行けば、帰路のほうが危なくなる。
少弐は続けた。
「ただし、行って終わりにはしたくありません」
模型の北端。
そのさらに先を指す。
まだ粘土すら置かれていない。
完全な空白だった。
「次に来たとき、この先へ進めるようにしておきたい」
マリアが頷く。
「案内人ね」
「ええ」
今回と同じ方法を使う。
北端近くのコタンへ行き、交流する。
交易する。
土地について聞く。
そして――
さらに北、あるいは海峡の向こうを知っている者を探しておく。
その者が次回までコタンにいるなら、再訪したときに案内を頼む。
あるいは、さらに北の者へ話をつないでもらう。
「今回は連れて行かないの?」
ライラが尋ねた。
少弐は頷いた。
「季節が遅すぎます」
案内人を得たからといって、九月半ばから未知の海へ飛び出すつもりはない。
「名前を聞く。顔を覚える。贈り物をする。そして――」
少弐は北端を指した。
「春になったら、また来ると約束する」
それで十分だった。
イネスが手帳へ書き込む。
第一回北方調査終点――樺太北端。
第二回調査――北端以北。
その横へ大きな空白を残した。
少弐は次に模型の中央付近を指した。
「そしてハウキ殿」
ハウキが顔を上げる。
少弐の指は、北上途中に立ち寄ったコタンへ置かれていた。
ナヨロのコタン。
そこで少弐たちはハウキを紹介された。
「帰りには、ここへお送りします」
シレトクが訳す。
ハウキは頷いた。
もともとの約束である。
自分の知る北の土地まで案内する。
帰路ではナヨロへ戻る。
「報酬も約束どおり渡します」
少弐が言う。
ハウキは何か答えた。
シレトクが笑った。
「食べ物も持たせてくれ、と」
「もちろん」
少弐も笑う。
その隣でエカシロが腕を組んでいる。
少弐はちらりと見る。
「あなたは……」
エカシロが先に首を振った。
まだ帰らない。
もう何度目か分からない意思表示だった。
腰には坂東サーベルがある。
少弐は苦笑する。
「分かりました。あなたについては後で相談しましょう」
エカシロは満足そうだった。
そして次は、遠征隊自身の帰路だった。
少弐は模型のずっと南を指した。
「北端を調べたら反転します」
樺太を南下。
途中でナヨロへ寄り、ハウキを送り届ける。
さらに南下。
南樺太。
海峡を渡る。
宗谷。
そして――
少弐の指が室蘭で止まった。
「ここへ戻ります」
すでに置かれている札がある。
『冬営地 室蘭』
シレトクの妹婿の一族がいる土地。
北方に留まりながらも、樺太や宗谷より冬の危険を減らせる。
少弐は全員を見る。
「最終的な越冬地を室蘭とします」
マリアが最初に頷いた。
「賛成」
イネスも異論なし。
ライラも頷く。
シレトクは当然という顔だった。
エカシロとハウキにも説明する。
エカシロは少し考えてから頷いた。
ハウキは室蘭を知らないらしい。
シレトクが、
「俺の親類がいる」
と説明すると納得した。
これで決まった。
北端。
反転。
ナヨロ。
宗谷。
室蘭。
一本の帰路が模型の上につながった。
少弐は息を吐いた。
「では、最後の目的地へ行きましょう」
そのときだった。
ハウキが何か言った。
シレトクが聞き返す。
二人が少し話す。
そしてシレトクが少弐を見る。
「ハウキが、次のコタンへ持っていく物について言っている」
「何がいいです?」
ハウキは両手を擦った。
寒そうな仕草。
そして何かを飲む真似をする。
「酒?」
ハウキが頷く。
それから、
もっと強いもの。
という身振りをした。
シレトクが笑った。
「次の土地は寒い。強い酒があったら喜ぶんじゃないか、と」
少弐は考えた。
希望の酒蔵にはいくつかある。
日本酒。
ポルトガルのワイン。
そして航海用に積んだ、もっと度数の高い蒸留酒。
マリアも気づく。
「アグアルデンテ?」
「少しありますね」
ポルトガルの強い蒸留酒。
ハウキに少量見せる。
香りを嗅いだハウキが、
「これだ」
という顔をした。
マリアが笑う。
「飲ませすぎないでよ」
ハウキは小さな杯へほんの少し注いでもらった。
口へ入れる。
一瞬、目を見開く。
喉を押さえる。
そして――
満面の笑み。
何か勢いよく言った。
シレトクまで笑い出した。
「なんて?」
「これなら北の連中も忘れないだろう、って」
少弐も笑った。
「それはいい」
交易とは、値段だけではない。
遠方から来た者を覚えてもらうこと。
次に訪れたとき、
「あの酒を持ってきた者たちだ」
と思い出してもらえる。
それも立派な外交だった。
少弐は決めた。
「では小樽をいくつか贈答用にしましょう」
ただし全部渡すわけではない。
まず長へ一本。
皆で味を見るために一本。
残りは交易用。
布。
鉄器。
針。
そして強い酒。
北端での最初の贈答品が決まった。
ハウキは満足そうに頷いた。
少弐は模型を見る。
室蘭の札。
ナヨロの札。
そして北端。
その先にある、
『未詳』。
今回、その札を越えることはない。
だが次回、
そこから旅を始められるようにして帰る。
「では確認します」
少弐が言った。
「樺太北端まで進む」
指を置く。
「そこで次回の案内人を探す」
次。
「帰路でハウキ殿をナヨロへ送る」
さらに南。
「そして室蘭まで撤退し、冬を越す」
全員が頷いた。
少弐は最後に北端を指した。
「今年は、ここまで」
そして、その先の空白へ指を移す。
「この先は――来年です」
ハウキが笑った。
エカシロも北を見た。
シレトクは室蘭の札を確認する。
マリアは立ち上がった。
「それじゃ、行きましょう」
希望は再び帆を張った。
船倉には、北の人々へ渡す強い酒。
船室には、北へ伸び続けた模型。
そしてその模型の一番端には、
まだ誰も詳しく知らない土地を示す、
『未詳』
の小さな札が立っていた。




