北への借り――二人目の案内人
翌日の昼過ぎ。
希望の船首から陸を見張っていたエカシロが、不意に声を上げた。
北東を指している。
少弐がすぐ甲板へ出た。
海岸は森に覆われていたが、その一角だけ煙が細く上がっている。
「次のコタンですか」
シレトクがエカシロに確認する。
エカシロは頷いた。
ただし、そのまま船を近づけるなという。
マリアもすぐ判断した。
「希望は沖で止めます」
帆を絞る。
錨を下ろす。
大型の希望を見慣れない者たちの目の前まで進ませれば、余計な警戒を招く。
そこでポラリスを使うことになった。
だがエカシロは、自分が先に行くと言った。
「一人で?」
少弐が尋ねる。
シレトクが訳す。
エカシロは頷いた。
まず自分が話す。
それから来い。
そういうことらしい。
少弐は承知した。
「お願いします」
エカシロは小舟へ移った。
腰には、トゥナイチャで少弐から贈られた坂東サーベルがある。
岸へ近づくにつれ、集落から何人かの男たちが出てきた。
弓を持っている者もいる。
だがエカシロが立ち上がって声をかけると、空気が変わった。
遠くからでも、互いに何かを話しているのが分かる。
やがて一人が集落へ戻った。
しばらくして年長の男が現れる。
エカシロと話す。
そして――
沖の希望を見る。
ポラリスを見る。
再びエカシロを見る。
長い話だった。
だが最後には、岸からこちらへ手が上がった。
「よさそうですね」
少弐が言った。
シレトクも頷く。
「行きましょう」
少弐、シレトク、マリア、イネス、ライラらはポラリスで岸へ向かった。
今回は最初からエカシロがいる。
前のコタンで行ったような慎重な探り合いは、かなり短く済んだ。
エカシロが、
南のトゥナイチャから来た客であること。
争いに来たのではないこと。
交易をしたいこと。
さらに北へ行きたいこと。
それらを順番に説明してくれていたからだった。
少弐はいつものように酒と布、小さな鉄器を贈った。
そして長へ礼をする。
しばらくすると食べ物が出された。
魚。
獣肉。
木の実。
少弐たちはそれを受け取り、自分たちの食べ物も出した。
食事をしながら、まず交易品について尋ねる。
毛皮。
魚。
油。
骨や牙。
北から入ってくる品。
イネスが描く。
マリアが質問する。
ライラは装身具や祭祀に使われる品に目を留める。
そして食事が落ち着いたところで、少弐は例の紙を広げた。
さらに今回は、船から模型の一部まで持ってきていた。
「これを見ていただきたい」
集落の者たちが集まってくる。
石と粘土で作られた土地。
エカシロが説明すると、すぐ反応があった。
「やはり」
少弐が笑う。
一人の男が模型の石を動かした。
川の位置が違う。
別の者が、その北に小石を置く。
コタンがある。
さらに海岸線を指で修正する。
イネスの筆が忙しく動き始めた。
そうして模型には、また少し北の世界が加わった。
だが問題はその先だった。
エカシロが首を振る。
ここから先は、自分も詳しくない。
少弐は長へ尋ねた。
「さらに北を知っている方はいませんか」
話し合いが始まった。
やがて一人の男が呼ばれた。
エカシロより少し年上。
四十ほどだろうか。
北との交易経験があり、このコタンからさらに数日の範囲なら海岸と集落を知っているという。
少弐は頭を下げた。
「お願いしたい」
報酬についても相談した。
今回は布、鉄製の刃物、酒、それに帰還時の追加報酬。
男は承知した。
これで案内人を交代できる。
少弐は安心した。
そしてエカシロのところへ行った。
「ありがとうございました」
シレトクに訳してもらう。
「ここまで無事に来られたのは、あなたのおかげです」
エカシロは黙って聞いている。
「帰りの舟については、こちらで用意します。あるいは、このコタンから南へ戻る者がいるなら――」
そこまで訳されたところで、
エカシロが首を振った。
「?」
少弐は止まる。
エカシロが腰を叩いた。
坂東サーベル。
それから少弐を指す。
自分を指す。
北を指す。
少弐には意味が分からない。
シレトクがエカシロと話した。
一言。
二言。
そして笑い始めた。
「何と言っています?」
シレトクは笑いをこらえながら訳した。
「この剣の借りとしては、ここまででは小さすぎる、と」
少弐は目を丸くした。
エカシロはサーベルを少し持ち上げた。
そして北を指す。
「まだ北へ行くそうです」
「いや……しかし、報酬として渡したものです。借りではありません」
訳してもらう。
エカシロはまた首を振った。
自分にとっては違う。
そんな調子である。
少弐は困った。
「ご家族もいるでしょう」
エカシロは頷く。
だが、それでも北を指した。
帰りにはまたここを通る。
それまで付き合う。
そして新しい案内人を指す。
自分が知らないところは、あの男が知っている。
自分は南を知っている。
二人いれば困らない。
理屈までつけてきた。
マリアが横で笑っている。
「ずいぶん気に入られたわね」
「笑い事ではありませんよ」
「いいじゃない。本人が行きたいと言っているんだから」
ライラもエカシロの腰の剣を見る。
「それに、もう使い方も教え始めちゃったし」
先ほどからライラは暇を見つけては、サーベルの抜き方や鞘の位置を身振りで教えていた。
エカシロも楽しそうに真似している。
少弐は頭を掻いた。
「……分かりました」
そしてエカシロへ向き直った。
「では、もう少しお願いします」
エカシロが笑った。
手を差し出す。
少弐は一瞬迷ってから、その手を握った。
これで案内人は一人から二人になった。
一人は南を知るエカシロ。
もう一人は、さらに北を知る男。
新しい案内人の名は、
ハウキ。
少弐はその名を地図の余白へ書いた。
その日の夕方。
希望へ戻ると、さっそく二人を模型の前へ連れていった。
エカシロが、自分の知っている範囲を指す。
ハウキがその先を指す。
そして――
粘土が北へ伸びた。
新しい川ができた。
新しいコタンを示す石が置かれた。
エカシロが知らなかった湾も加わった。
シレトクが北海道側について補足する。
マリアが航海に必要な情報を書き込む。
イネスが紙の地図へ写していく。
少弐は少し離れたところからそれを眺めていた。
昨日まで空白だったところに、土地ができている。
そして気づいた。
この模型は単なる地図ではなくなりつつある。
人から人へ渡されていく知識そのものだった。
シレトクが知っている土地。
エカシロが知っている土地。
ハウキが知っている土地。
三人の記憶が重なるところは詳しくなり、一人しか知らないところは慎重に記す。
誰も知らないところには、何も置かない。
少弐は木札を一本取った。
『未詳』
それをさらに北へ移した。
「また遠くなりましたね」
イネスが言う。
「ええ」
少弐は笑った。
「いいことです」
翌朝。
希望とポラリスは再び帆を張った。
岸には集落の人々が立っている。
船上には、シレトク。
エカシロ。
そしてハウキ。
三人の土地を知る者がいた。
出航すると、エカシロが少弐の隣へ来た。
腰には坂東サーベル。
エカシロはそれを軽く叩き、
北を指す。
少弐も北を見る。
「分かりましたよ」
言葉は通じなくとも、今度は意味が分かった。
「その剣に見合うところまで行きましょう」
希望はさらに北へ進んだ。




