船の中に生まれた蝦夷地
トゥナイチャを離れてから、希望は海岸を左手に見ながら北へ進んでいた。
風は悪くない。
急ぐ必要もなかった。
何より、今はエカシロという土地を知る者がいる。
少弐は甲板で海岸線を眺めながら、昨日書き込んだ地図を何度も開いていた。
岬が見えるたびに位置を確かめる。
川らしき切れ込みがあれば記す。
マリアも時折、方角と船速からおおよその位置を告げた。
そうしているうち、少弐はふと思った。
紙だけでは足りない。
昨日、トゥレシたちが石と枝で土地を示したときのことを思い出したのである。
「シレトク殿」
少弐は声をかけた。
「はい」
「あなたは宗谷だけではなく、蝦夷地をかなり歩いていましたね」
シレトクは頷いた。
もともとは北海道で漁をして暮らしていた。
海を知り、川を知り、季節ごとに魚が集まる場所を知っていた。
その後は和人に雇われ、護衛として函館周辺を旅した。
和人の町にも出入りした。
つまり彼の頭の中には、少弐たちの持っているどの地図よりも細かな「暮らす者の地図」がある。
「どこまでなら分かります?」
「全部は知らない」
シレトクは答えた。
「それでいいのです」
少弐は即答した。
そしてエカシロも呼んだ。
エカシロは樺太の海岸を知っている。
南についてはシレトク。
北についてはエカシロ。
二人の知識を合わせれば、少なくとも今まで少弐たちが歩いてきた世界と、これから向かう世界をつなげられる。
少弐は船員に頼み、余っていた木板を一枚持ってこさせた。
かなり大きな板だった。
「何をするの?」
イネスが尋ねる。
少弐は笑った。
「蝦夷地を作ります」
「……作る?」
「昨日のあれですよ」
ほどなく粘土が持ってこられた。
補修や雑用に使えるよう積まれていたものの一部だった。
小石。
細い木片。
砂。
糸。
そして木札。
少弐はそれらを板の周囲に並べた。
最初にシレトクを座らせる。
「まず、あなたの知っている南から」
シレトクは困った顔をした。
紙の地図を描けと言われても難しい。
そこで少弐は粘土を渡した。
「昨日と同じです。海と陸を作ってください」
それなら分かった。
シレトクは粘土を板の上へ置いた。
まず、南の大きな半島。
そこから海岸を伸ばす。
少弐が持っている既存の海図と照らし合わせながら、おおよその形を整えていく。
「ここは?」
少弐が尋ねる。
「和人が多い」
函館周辺だった。
小さな木片を立てる。
「では、町」
別の場所。
「ここは?」
「漁をする」
小石を置く。
「こちらは?」
シレトクは少し考え、
「行ったことはない」
と言った。
少弐はそこに何も置かなかった。
イネスが気づく。
「空けておくの?」
「ええ」
少弐は答えた。
「知らないところを想像で埋めたら、地図ではなく絵物語になります」
マリアが笑った。
「私たち、ユニコーンを探しているのだけれど」
「だからこそですよ」
少弐も笑った。
「空想の獣を探す旅だから、土地くらいは空想で描かないようにしましょう」
ライラが気に入ったらしく笑う。
「いい言葉ね」
やがてシレトクの記憶から、海岸、川、山、漁場、コタン、和人の町が少しずつ現れていった。
正確な距離は分からない。
だから少弐は模型の縮尺を厳密には決めなかった。
これは測量図ではない。
土地同士の関係を理解するための模型なのだ。
次にエカシロが呼ばれた。
シレトクが作った北端。
宗谷の向こう。
海を挟んだところに、別の粘土の塊を置く。
樺太である。
エカシロはすぐ手を伸ばした。
南端を直す。
海岸を伸ばす。
川を一本作る。
小石を置く。
「コタン?」
頷く。
さらに北。
別の小石。
そして少弐たちが昨日までいたトゥナイチャ。
そこには少し大きめの木札を立てた。
「ここから我々が出た」
少弐が言う。
エカシロはさらに北へ手を伸ばした。
小石を置く。
次の目的地。
もう一つ。
その次。
だが――
あるところで手が止まった。
エカシロは首を振った。
「ここから先は知らない?」
シレトクが聞く。
エカシロは頷いた。
少弐は、その先の粘土を置かなかった。
板の北半分が空白になった。
マリアが腕を組んで眺める。
「ずいぶん寂しい地図ね」
「今は、です」
少弐が答える。
イネスが理解した。
「これから増やすのね」
「そうです」
少弐は空白の板を指した。
「コタンへ行くたび、そこの人に聞く」
川があれば足す。
山があれば粘土を盛る。
港にできる湾なら印を付ける。
危険な浅瀬なら石を置く。
交易路なら糸を張る。
漁場。
狩猟場。
冬に通れる場所。
冬には通れない場所。
別の民族が住む場所。
どこで何が手に入るか。
少弐は次々に言った。
マリアの表情が変わっていった。
単なる遊びではない。
これは航海資料になる。
「海の情報も入れましょう」
マリアが言った。
「風、潮、錨を下ろせる場所。それから船を隠せる湾」
「賛成」
イネスも加わる。
「私は紙の地図と対応させる。模型に番号を振って、画帳にも同じ番号を書くわ」
ライラも模型を覗き込んだ。
「私は?」
少弐が少し考える。
「社や祭祀の場所。それに寺、祠、墓地、聖地のようなものがあれば」
ライラの顔が明るくなる。
「それなら任せて」
こうして仕事が決まった。
シレトクとエカシロが土地を語る。
少弐が情報を整理する。
マリアが航海情報を加える。
イネスが紙へ写す。
ライラが人々の信仰に関わる場所を記録する。
気がつけば、船員まで集まっていた。
「ここ、昨日通りましたぜ」
一人が指を差す。
「大きな岩がありました」
「どの辺りです?」
「この岬を回ってすぐです」
小石が一つ追加される。
別の船員が言う。
「あそこは潮が妙でした」
マリアがすぐ反応する。
「どちらへ流れていた?」
そうして情報が増えていった。
数刻後。
船室の中央には、不格好ながら一つの世界が出来上がっていた。
南には蝦夷地。
そのさらに南には和人の住む地域。
海峡を挟んで北に樺太。
小石がコタン。
木片が町。
盛った粘土が山。
細い溝が川。
糸が交易路。
貝殻が良い漁場。
黒い石が危険な浅瀬。
まだ何も分からない場所は――何も置かれていない。
模型の北側には、大きな空白が残っている。
少弐はそれをしばらく眺めた。
そして小さな木札を一枚取った。
墨で文字を書く。
『未詳』
北端に立てた。
「これで完成?」
マリアが尋ねる。
少弐は首を振った。
「逆です」
模型を囲む全員を見る。
「今日から始めます」
少弐は北側の空白を指した。
「これから行った土地を、一つずつここへ足していきましょう」
シレトクが笑った。
エカシロは言葉の全部までは理解できなかったが、少弐が空白を指してから北を指したことで意味を察した。
腰の坂東サーベルを軽く叩く。
そして模型の北端へ指を置いた。
次のコタン。
そこから実際の北を指す。
「まず、そこだな」
シレトクが訳した。
少弐は頷いた。
「ええ。まずそこからです」
その日の夕方から、希望の船室には奇妙なものが置かれることになった。
宝物でもない。
武器でもない。
航海計器でもない。
石と木と粘土で作られた、まだ半分以上が空白の蝦夷地の模型。
しかし少弐たちが北へ進むたびに、
山が一つ増え、
川が一本伸び、
コタンを示す石が一つ置かれる。
そしていつの日か、この空白がすべて土地になる。
それはユニコーンの角を探す旅と並んで、いつしか彼らのもう一つの楽しみになり始めていた。




