↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
686/1029

北へ――一振りの剣を託して

地面に作られた模型を囲んだ話は、いつしか「この土地がどうなっているか」から、「この先へどう進むか」へと移っていた。


少弐は模型の北端に置かれた小石を指した。


「ここまでは、行けるのですね」


シレトクが訳す。


長のトゥレシは頷いた。


その先にも人は住んでいる。


交易のため北へ向かう者もいる。


だが、そこから先についてはトゥレシ自身も詳しくないという。


少弐はしばらく模型を眺めた。


そして尋ねた。


「北へ行ったことのある者を、一人お借りできませんか」


シレトクが少し言葉を選びながら伝える。


「我々はさらに北へ行きたい。だが、知らぬ土地へ勝手に入って争いを起こすつもりはない。道を知り、人を知る者に案内してもらいたい、と」


トゥレシはすぐには答えなかった。


周囲の男たちを見る。


何人かと言葉を交わしたあと、一人の男を呼んだ。


先ほど交易品を運び、模型を作る際にも手伝っていた男だった。


三十代半ばほどだろうか。


日に焼けた顔をしており、口数は少ない。


だが少弐には覚えがあった。


模型を作っている最中、トゥレシが置いた北側の石を、この男が一度だけ動かしていた。


「やはり」


少弐が小さく呟く。


マリアが横を見る。


「何が?」


「あの人です。北の地形を知っている」


シレトクが男と話す。


やがて振り返った。


「北へ交易に行ったことが何度もあるそうです。海岸沿いのコタンなら、いくつか知っていると」


「どこまで?」


シレトクが尋ねる。


男は模型の北側へ手を伸ばした。


小石を一つ。


さらにもう一つ。


そして三つ目のところで手を止める。


そこまでは自分で行ったことがある。


その先は、知っている者から話を聞いただけだという。


少弐はむしろ安心した。


知らないことまで知っていると言う者より、はるかに信用できる。


「十分です」


男の名を尋ねる。


「エカシロ」


少弐は一度復唱した。


「エカシロ殿」


そして立ち上がった。


「少し待っていただきたい」


希望へ戻らせた者に命じ、一つの細長い包みを持ってこさせた。


布を解く。


現れたのは、一振りの剣だった。


ライラがすぐに気づいた。


「坂東の剣ね」


「ああ」


坂東で作られたサーベル。


華美な儀礼剣ではない。


実際に腰へ吊り、旅先で使える丈夫な一振りだった。


きちんと鞘に納められ、佩くための金具も付いている。


少弐は刀身をわずかに抜いた。


陽光を受けて鋼が光る。


エカシロの表情が変わった。


周囲の男たちも集まってくる。


鉄器そのものが珍しいわけではない。


だが、これほど長く、均質な鋼で作られ、最初から人が腰に佩くために整えられた剣は価値が違う。


少弐は刀身を鞘へ戻した。


そして両手でエカシロへ差し出した。


「これは先に渡します」


シレトクが訳す。


「案内を終えてからではない。今、あなたの物にする、と」


エカシロが少弐を見る。


少弐は続けた。


「知らない土地へ我々を連れていくのです。危険もあるでしょう。だから働いたあとに払うのではなく、まず私があなたを信用していることを示したい」


訳を聞いたエカシロは、しばらく剣を受け取らなかった。


トゥレシを見る。


長が何か短く言った。


そこで初めて、エカシロは両手を伸ばした。


ずしりとした剣が、その手へ渡る。


彼は鞘を眺めた。


柄を握る。


少しだけ抜く。


鋼を見て、すぐ鞘へ戻した。


それから少弐へ深く頭を下げた。


少弐も同じように頭を下げる。


これで契約は成立した。


だが少弐は、さらにトゥレシへ向き直った。


「そして、あなたにも礼を申し上げます」


案内人を出すということは、単に一人の働き手を貸すことではない。


自分のコタンの人間を、見知らぬ外国人の船に預けるということだ。


少弐は酒、鉄器、布などを追加で贈った。


トゥレシもそれを受け取った。


最後に、地面の模型の前で今後の道筋をもう一度確認する。


まず海岸沿いに北上する。


途中に川。


その先に舟を寄せられる湾。


さらに北にコタンが一つ。


そこで天候を見ながら休み、さらに次へ。


危険な浅瀬にはエカシロが小石を置いた。


「ここは希望では近づけないな」


マリアが模型を見て言った。


「ポラリスなら?」


エカシロとシレトクが相談する。


小さい船なら近づける。


ただし潮が引くと危険。


「では希望を沖に置き、必要ならポラリスで接岸しましょう」


マリアが決めた。


イネスはその情報を地図へ書き加えていく。


ライラは新しく仲間になったエカシロの腰を見た。


まだサーベルの佩き方が分からないらしい。


「それ、少し位置を変えたほうが歩きやすいわよ」


もちろん言葉は通じない。


ライラは自分の剣を指し、それからエカシロのサーベルを指して身振りで示した。


エカシロも意味を察する。


二人で帯への付け方を調整した。


うまく収まる。


エカシロは歩いてみる。


そして笑った。


ライラも笑った。


言葉がなくても、武器を扱う者同士には通じるものがあるらしい。


翌朝。


希望とポラリスは出航準備を整えた。


コタンの人々が海岸へ集まっている。


エカシロも荷物を背負っていた。


腰には昨日まで存在しなかった坂東サーベルがある。


家族や仲間と言葉を交わしたあと、小舟で希望へ向かう。


少弐は甲板からそれを見ていた。


マリアが隣に立つ。


「ずいぶん高い前払いね」


「命を預ける相手ですから」


「逃げたら?」


少弐は少し考えた。


「そのときは、人を見る目がなかった私の負けです」


マリアが笑う。


「あなた、時々商人らしくないことをするわね」


「外交官ですので」


「もっと悪いじゃない」


二人が笑っている間に、エカシロが甲板へ上がってきた。


初めて乗る大型帆船を見上げる。


帆柱。


索具。


砲門。


大勢の船員。


さすがに圧倒されている。


しかし少弐を見つけると、腰のサーベルを軽く叩いた。


そして北を指した。


少弐も北を見る。


昨日まで、紙の上では空白だった方角。


その先に別のコタンがある。


さらにその向こうにも人がいる。


そして、どこかには北方から流れてくる品々の道がある。


ユニコーンの角と呼ばれたものも、その道のどこかにあるかもしれない。


「出しましょう」


錨が上がった。


帆が張られる。


トゥナイチャの人々が岸から手を振る。


エカシロも船尾から故郷へ手を上げた。


やがてコタンは小さくなった。


海岸と森だけになる。


エカシロは名残惜しそうにそれを眺めていたが、しばらくすると船首へ歩いた。


そして北を指す。


少弐が地図を持って近づく。


エカシロは紙の上に描かれた海岸線と実際の陸地を見比べた。


少し考える。


そして少弐の筆を借りると――


地図の海岸線を指し、


「違う」


というように首を振った。


少弐は目を丸くした。


エカシロはもっと沖へ張り出すよう、指で線を示した。


少弐はすぐ描き直す。


「なるほど。ここに岬があるのか」


エカシロが頷く。


マリアがそれを見て笑った。


「もう仕事を始めてくれてる」


少弐も笑った。


こうして希望とポラリスは、初めて樺太の土地を知る案内人を乗せて北へ向かった。


目指すのは、エカシロが知る次のコタン。


そこから先は、まだ誰にも分からない。


少弐の地図には、北へ行くほど大きな余白が残されていた。


そして今、その余白を一つずつ埋める旅が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。