北へ――一振りの剣を託して
地面に作られた模型を囲んだ話は、いつしか「この土地がどうなっているか」から、「この先へどう進むか」へと移っていた。
少弐は模型の北端に置かれた小石を指した。
「ここまでは、行けるのですね」
シレトクが訳す。
長のトゥレシは頷いた。
その先にも人は住んでいる。
交易のため北へ向かう者もいる。
だが、そこから先についてはトゥレシ自身も詳しくないという。
少弐はしばらく模型を眺めた。
そして尋ねた。
「北へ行ったことのある者を、一人お借りできませんか」
シレトクが少し言葉を選びながら伝える。
「我々はさらに北へ行きたい。だが、知らぬ土地へ勝手に入って争いを起こすつもりはない。道を知り、人を知る者に案内してもらいたい、と」
トゥレシはすぐには答えなかった。
周囲の男たちを見る。
何人かと言葉を交わしたあと、一人の男を呼んだ。
先ほど交易品を運び、模型を作る際にも手伝っていた男だった。
三十代半ばほどだろうか。
日に焼けた顔をしており、口数は少ない。
だが少弐には覚えがあった。
模型を作っている最中、トゥレシが置いた北側の石を、この男が一度だけ動かしていた。
「やはり」
少弐が小さく呟く。
マリアが横を見る。
「何が?」
「あの人です。北の地形を知っている」
シレトクが男と話す。
やがて振り返った。
「北へ交易に行ったことが何度もあるそうです。海岸沿いのコタンなら、いくつか知っていると」
「どこまで?」
シレトクが尋ねる。
男は模型の北側へ手を伸ばした。
小石を一つ。
さらにもう一つ。
そして三つ目のところで手を止める。
そこまでは自分で行ったことがある。
その先は、知っている者から話を聞いただけだという。
少弐はむしろ安心した。
知らないことまで知っていると言う者より、はるかに信用できる。
「十分です」
男の名を尋ねる。
「エカシロ」
少弐は一度復唱した。
「エカシロ殿」
そして立ち上がった。
「少し待っていただきたい」
希望へ戻らせた者に命じ、一つの細長い包みを持ってこさせた。
布を解く。
現れたのは、一振りの剣だった。
ライラがすぐに気づいた。
「坂東の剣ね」
「ああ」
坂東で作られたサーベル。
華美な儀礼剣ではない。
実際に腰へ吊り、旅先で使える丈夫な一振りだった。
きちんと鞘に納められ、佩くための金具も付いている。
少弐は刀身をわずかに抜いた。
陽光を受けて鋼が光る。
エカシロの表情が変わった。
周囲の男たちも集まってくる。
鉄器そのものが珍しいわけではない。
だが、これほど長く、均質な鋼で作られ、最初から人が腰に佩くために整えられた剣は価値が違う。
少弐は刀身を鞘へ戻した。
そして両手でエカシロへ差し出した。
「これは先に渡します」
シレトクが訳す。
「案内を終えてからではない。今、あなたの物にする、と」
エカシロが少弐を見る。
少弐は続けた。
「知らない土地へ我々を連れていくのです。危険もあるでしょう。だから働いたあとに払うのではなく、まず私があなたを信用していることを示したい」
訳を聞いたエカシロは、しばらく剣を受け取らなかった。
トゥレシを見る。
長が何か短く言った。
そこで初めて、エカシロは両手を伸ばした。
ずしりとした剣が、その手へ渡る。
彼は鞘を眺めた。
柄を握る。
少しだけ抜く。
鋼を見て、すぐ鞘へ戻した。
それから少弐へ深く頭を下げた。
少弐も同じように頭を下げる。
これで契約は成立した。
だが少弐は、さらにトゥレシへ向き直った。
「そして、あなたにも礼を申し上げます」
案内人を出すということは、単に一人の働き手を貸すことではない。
自分のコタンの人間を、見知らぬ外国人の船に預けるということだ。
少弐は酒、鉄器、布などを追加で贈った。
トゥレシもそれを受け取った。
最後に、地面の模型の前で今後の道筋をもう一度確認する。
まず海岸沿いに北上する。
途中に川。
その先に舟を寄せられる湾。
さらに北にコタンが一つ。
そこで天候を見ながら休み、さらに次へ。
危険な浅瀬にはエカシロが小石を置いた。
「ここは希望では近づけないな」
マリアが模型を見て言った。
「ポラリスなら?」
エカシロとシレトクが相談する。
小さい船なら近づける。
ただし潮が引くと危険。
「では希望を沖に置き、必要ならポラリスで接岸しましょう」
マリアが決めた。
イネスはその情報を地図へ書き加えていく。
ライラは新しく仲間になったエカシロの腰を見た。
まだサーベルの佩き方が分からないらしい。
「それ、少し位置を変えたほうが歩きやすいわよ」
もちろん言葉は通じない。
ライラは自分の剣を指し、それからエカシロのサーベルを指して身振りで示した。
エカシロも意味を察する。
二人で帯への付け方を調整した。
うまく収まる。
エカシロは歩いてみる。
そして笑った。
ライラも笑った。
言葉がなくても、武器を扱う者同士には通じるものがあるらしい。
翌朝。
希望とポラリスは出航準備を整えた。
コタンの人々が海岸へ集まっている。
エカシロも荷物を背負っていた。
腰には昨日まで存在しなかった坂東サーベルがある。
家族や仲間と言葉を交わしたあと、小舟で希望へ向かう。
少弐は甲板からそれを見ていた。
マリアが隣に立つ。
「ずいぶん高い前払いね」
「命を預ける相手ですから」
「逃げたら?」
少弐は少し考えた。
「そのときは、人を見る目がなかった私の負けです」
マリアが笑う。
「あなた、時々商人らしくないことをするわね」
「外交官ですので」
「もっと悪いじゃない」
二人が笑っている間に、エカシロが甲板へ上がってきた。
初めて乗る大型帆船を見上げる。
帆柱。
索具。
砲門。
大勢の船員。
さすがに圧倒されている。
しかし少弐を見つけると、腰のサーベルを軽く叩いた。
そして北を指した。
少弐も北を見る。
昨日まで、紙の上では空白だった方角。
その先に別のコタンがある。
さらにその向こうにも人がいる。
そして、どこかには北方から流れてくる品々の道がある。
ユニコーンの角と呼ばれたものも、その道のどこかにあるかもしれない。
「出しましょう」
錨が上がった。
帆が張られる。
トゥナイチャの人々が岸から手を振る。
エカシロも船尾から故郷へ手を上げた。
やがてコタンは小さくなった。
海岸と森だけになる。
エカシロは名残惜しそうにそれを眺めていたが、しばらくすると船首へ歩いた。
そして北を指す。
少弐が地図を持って近づく。
エカシロは紙の上に描かれた海岸線と実際の陸地を見比べた。
少し考える。
そして少弐の筆を借りると――
地図の海岸線を指し、
「違う」
というように首を振った。
少弐は目を丸くした。
エカシロはもっと沖へ張り出すよう、指で線を示した。
少弐はすぐ描き直す。
「なるほど。ここに岬があるのか」
エカシロが頷く。
マリアがそれを見て笑った。
「もう仕事を始めてくれてる」
少弐も笑った。
こうして希望とポラリスは、初めて樺太の土地を知る案内人を乗せて北へ向かった。
目指すのは、エカシロが知る次のコタン。
そこから先は、まだ誰にも分からない。
少弐の地図には、北へ行くほど大きな余白が残されていた。
そして今、その余白を一つずつ埋める旅が始まった。




