忘れていた返礼
希望へ戻った少弐は、船室に海図を広げていた。
マリア、イネス、ライラがその周囲を囲み、シレトクも一緒に座っている。
「――というわけで、北から来る者もいるらしい」
少弐は先ほどの南樺太アイヌとの会話を、一つずつ三人へ伝えていた。
「毛皮を持ってくる者もいる。魚もある。それから、例の角については『ここにはない』ではなく、『いつもあるものではない』という言い方だった」
「そこ、大事よ」
マリアがすぐ反応した。
「見たことも聞いたこともないなら、普通は知らないって言うでしょう?」
「私もそう思った。だから次は――」
そのときだった。
甲板がにわかに騒がしくなった。
船員の一人が船室を覗き、
「少弐様。浜から舟です」
「浜から?」
少弐は立ち上がった。
甲板へ出る。
希望の舷側近くに小舟が一艘寄せられていた。
乗っている者の顔には見覚えがある。
先ほどのコタンにいた男だった。
「使いか」
シレトクも少弐の隣へ出てきた。
縄梯子が下ろされ、男が甲板へ上がってくる。
少弐は少し身構えた。
何かまずいことでもあったのだろうか。
ところが男はシレトクを見るなり、早口で何事か話し始めた。
シレトクが聞いているうちに笑い出した。
「何だ?」
少弐が尋ねる。
「長が、忘れたそうだ」
「何を?」
「贈り物」
「……贈り物?」
今度は少弐がきょとんとした。
シレトクが笑いながら続ける。
「お前たちから酒も角も皮も、それに服まで貰った。話に夢中になって、自分たちから何も渡していないことに、帰ってから気づいたそうだ」
少弐は思わず吹き出した。
「それでわざわざ追いかけてきたのか」
使者がさらに何か言う。
シレトクの顔が少し変わった。
「それだけじゃない」
「まだあるのか?」
「お前たちが、このまま南へ帰ると思ったらしい」
少弐は振り返った。
沖へ出た希望を見て、そう思ったのだろう。
「それで長が、帰る前にもう一度来い、と」
使者が身振りを交えながら何か付け加える。
シレトクが訳した。
「今度は商いの話だけではない。一緒に飯を食おう、と」
少弐は少し黙った。
それは先ほどとは意味が違った。
最初は宗谷の長から紹介された、得体の知れない南の者との面会だった。
今度は向こうから呼んでいる。
「ありがたいな」
少弐は素直に言った。
そして使者へ向き直る。
「ぜひ伺いたい、と伝えてくれ」
シレトクが訳す。
使者が満足そうに頷いた。
そこで少弐は少し考え、
「もう一つ聞いてくれ」
と言った。
「今度は仲間も連れて行ってよいか、と」
「仲間?」
少弐は後ろを振り返った。
船室から様子を見に出てきた三人がいる。
マリア。
イネス。
ライラ。
少弐が指差すと、使者は三人を順番に見た。
異国の女が三人。
しかもマリアは船長、イネスは医者、ライラは剣を帯びている。
さすがに使者も不思議そうな顔をした。
シレトクが説明する。
少しやり取りしたあと、使者は笑って大きく頷いた。
「いいそうだ」
「では決まりだな」
少弐が言うと、マリアが嬉しそうに身を乗り出した。
「私も行っていいの?」
「今度は宴だ。むしろ船長がいない方がおかしいだろう」
「それなら行く」
即答だった。
イネスも画帳を閉じる。
「病人がいたら診てもいいかしら」
「最初から医者として押しかけるなよ」
少弐が苦笑する。
「まず飯を食おう」
「分かってるわ」
ライラは静かに腰の剣を見た。
「これは?」
少弐も考えた。
「持って行っていいだろう。ただし今日は武人として行くんじゃない」
「客として?」
「そういうことだ」
ライラは頷いた。
少弐は使者へ向き直る。
「少し支度をしたら行く」
シレトクが伝える。
使者は安心したようだった。
そして小舟へ戻っていった。
その姿を見送りながら、少弐は笑った。
「危なかったな」
マリアが首を傾げる。
「何が?」
「もう少し沖へ出ていたら、長は『ずいぶん気前よく贈り物を置いて、そのまま帰った変な連中だ』と思ったままだった」
シレトクが笑う。
「向こうも同じだ。『客からたくさん貰って何も返さなかった』と思ったらしい」
「似たようなことを考えていたわけか」
少弐はそう言って、もう一度南樺太の浜を見た。
先ほどまでは、そこにいる者たちは交易相手だった。
だが今度は違う。
食卓を囲む。
家を見る。
家族と会う。
彼らが何を食べ、何を作り、何を大切にして暮らしているのかを見ることになる。
そして少弐にとっても、今度は一人ではない。
「マリア、イネス、ライラ」
三人が振り返る。
「行こうか」
再び小舟が降ろされた。
少弐とシレトク。
そして今度は、マリア、イネス、ライラも乗り込む。
五人を乗せた舟が希望を離れる。
浜ではすでに人影が増えていた。
どうやら長だけが待っているわけではないらしい。
マリアが遠くのコタンを眺めながら笑った。
「商談より緊張するわね」
少弐も笑った。
「私もだ」
最初の上陸は、宗谷の長の紹介を携えた使者として。
二度目の上陸は――
南樺太の人々に招かれた客としてだった。




