北の浜にてーーはじめての商談
酒が何巡かし、最初にあった硬い空気もようやく薄れてきたころだった。
少弐はすぐに本題へ入らなかった。
宗谷の長から預かった紋の入った小刀が効いたのだろう。先ほどまで遠巻きにこちらを眺めていた者たちも、いまでは近くまで寄ってきている。
少弐は隣に座るシレトクへ顔を向けた。
「まず聞いてほしい。このコタンには、よその土地から商いに来る者がいるのか、と」
シレトクがアイヌ語で長へ問いかける。
長は少し考えてから答えた。
シレトクが少弐へ訳す。
「いるそうです。ただ、いつも来るわけではない、と。南から来る者もいれば、北から品を持ってくる者もいるそうです」
「商人だけで来る者も?」
もう一度尋ねてもらう。
今度は長だけでなく、周囲の男たちからも言葉が飛んだ。
シレトクはそれを聞き分けてから、
「いるそうです。毛皮や魚、それから北の品を持ってくる者がいる。ただ、我々のいう商人とは少し違うかもしれない、と」
少弐は小さく頷いた。
それで十分だった。
ここは孤立した集落ではない。
すでに北と南を結ぶ交易の輪の中にある。
そこで少弐は、後ろに控えていた者へ合図した。
まず差し出したのは、一枚の地図だった。
精密な海図ではない。日本列島と蝦夷、そして今回たどってきた北の海を大まかに描いたものだ。
少弐は地図のずっと南を指した。
「我々は、ここから来た」
シレトクが訳す。
長が地図を覗き込んだ。
少弐は指をゆっくり北へ滑らせていった。
鹿島から北へ。
陸奥を越え、津軽を越え、蝦夷へ。
そして宗谷を示す。
「ここで、あなた方の知る長に会った」
例の小刀を地図の宗谷のところへ置く。
それから海峡を越え、現在いる樺太の浜まで指を動かした。
長だけでなく、周囲の者たちまで身を乗り出した。
地図というもの自体が珍しい。
自分たちの知っている海や土地が、一枚の紙の上で南の遥かな国とつながっている。
少弐は地図を畳まなかった。
「これは長に差し上げる」
シレトクがそう伝えると、長は意外そうな顔をした。
さらにもう一つ。
包みを解く。
現れたのは一領の陣羽織だった。
豪奢すぎるものではない。しかし丈夫な布で仕立てられ、背には小田の紋が入っている。
少弐はそれを両手で長へ差し出した。
「我々の主の印だ。遠い南から友として来た証として、受け取ってほしい」
シレトクが丁寧に訳した。
今度は長も意味を察したらしい。
宗谷の小刀が「宗谷の長の友人である証」なら、この陣羽織は、
「南の小田という者たちと友誼を結んだ証」
になる。
少弐は続いて、持参した交易品を並べさせた。
鉄の小刀。
針。
布。
小さな陶器。
酒。
ガラス玉。
ほかにも南方航海で手に入れた珍しい品を少量ずつ。
ただし大量には渡さない。
すべて見本だった。
「これも差し上げる。ただ――」
少弐は自分たちの品々を指した。
「我々は、こういうものを持って来られる」
そして今度は別の包みを開いた。
そこには、少弐たちが探している品を説明するためのイネスの絵が入っていた。
クロテンのような良質な毛皮。
海獣の牙。
珍しい鳥の羽。
そして――
長く、まっすぐ伸びた、螺旋の角。
少弐はその絵を指で叩いた。
「代わりに、我々はこういうものが欲しい」
シレトクが訳した。
特に最後の一本について、少弐は念を押した。
「大きな鯨から取れるという、長い角だ。もしここになくても構わない。これを持っている者、これを売りに来る者、あるいは、これが獲れる海を知っている者がいれば教えてほしい」
シレトクが言葉を選びながら伝えていく。
少弐は急かさなかった。
買いたい。
だから持っている者がいるなら、相応の品と交換する。
ただそれだけである。
やがて長が何事か答えた。
シレトクが少弐を見る。
「ここにいつもある物ではないそうです」
少弐の目が細くなる。
「――いつもは?」
「はい」
シレトクも、その言葉の意味に気づいていた。
「ない」ではなかった。
少弐は身を乗り出すことなく、静かに酒杯を長へ差し出した。
「なら、それでいい」
そして笑った。
「我々は急いでいない。また来る」
その一言もシレトクに訳してもらった。
これは角を探すためだけの旅ではない。
この浜へ来年も、その次の年も船が来るのだと、初めて伝えた瞬間だった。




