北の島の最初の煙
樺太そのものには、思いのほか早く着いた。
宗谷を出て海峡を渡りきると、これまで背後に見えていた北海道の山々とは別の、長く低い陸地が北へ向かって伸びている。
「……あれが樺太か」
少弐はポラールを覗きながら呟いた。
だが、陸が見えたからといって、すぐに船を寄せることはしなかった。
宗谷の長からも、樺太には言葉の通じる者たちがいるとは聞いている。しかし、友人というほど親しいわけではないとも聞いていた。
まして、こちらは見慣れぬ大きな船である。
海岸へ一直線に近づけば、それだけで襲撃と思われかねない。
北辰丸と希望は沖合に留まり、帆を落とした。
やがて海岸沿いを調べていた者が、細い煙を見つけた。
「人家があります」
ポラールで確かめる。
川の流れ込むあたりに、いくつかの家らしいものが固まっていた。浜には小舟もある。
集落だった。
少弐はしばらく考えてから命じた。
「こちらから押しかけるのはやめよう。向こうが我々を見つけるまで待つ」
小舟を一艘だけ海へ下ろした。
乗るのはシレトクと少弐を中心に数人だけ。武器は持つが、目立たせない。マリアたちも船に残った。
そして集落から少し離れた浜へ上陸すると、そこで待った。
ほどなくして、人影が現れた。
最初は二人。
その後ろから、さらに何人かがついてくる。
槍や弓を持つ者もいた。
少弐は動かなかった。
代わってシレトクが一歩前へ出た。
向こうの男が何かを叫ぶ。
シレトクも答えた。
言葉は完全に同じというわけではないらしい。何度か聞き返し、身振りを交えながら、それでも会話は成立している。
しばらくするとシレトクが振り返った。
「話せる。少し違う。でも、分かる」
「では、まず二人で行こう」
少弐は供の者たちを残した。
シレトクと二人だけで歩いていく。
少弐は相手の前まで来ると、宗谷で教わったやり方も交えながら丁寧に頭を下げた。
それから持ってきた酒を差し出す。
さらに包みを開いた。
中に入っていたのは、水牛の角と、その皮だった。
「我らの住む坂東で手に入れたものです。南の珍しい獣のもの。友好の贈り物として受け取っていただきたい」
シレトクがそれを伝える。
樺太の男たちは水牛の角を手に取り、興味深そうに眺めた。
角を叩く者。
断面を見る者。
皮を指で押して感触を確かめる者。
何やら言い合ったあと、一人が笑った。
その笑いで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
今度は向こうが酒を出してきた。
少弐は断らなかった。
一口飲む。
強い。
思わず顔をしかめると、それを見て男たちが笑った。
さらに煙草まで差し出された。
「酒の次は煙草か」
少弐も笑う。
言葉は十分に通じなくとも、酒を飲み、煙を吐き、互いの顔を見て笑う。
それだけで先ほどまでの緊張はかなり薄れていった。
そこで少弐は、ようやく懐へ手を入れた。
樺太の男たちの表情が一瞬固くなる。
しかし取り出されたのは武器ではなかった。
小さな鞘に納められた小刀である。
少弐は抜かなかった。
鞘の側面に刻まれた紋章を見えるようにして、両手で差し出した。
「これを知っていますか」
シレトクが訳す。
それまで笑っていた男の一人が、急に真顔になった。
小刀を受け取り、紋章を見る。
隣の年長者にも見せる。
二人は短く言葉を交わした。
そして年長者が少弐を見た。
何かを尋ねる。
シレトクが聞き返し、やがて少弐に向き直った。
「宗谷から来たのか、と」
少弐は頷いた。
「そうです。宗谷の長から預かりました。我々は北へ行く者です。争いに来たのではありません」
その言葉が伝えられる。
男はもう一度小刀を眺めた。
そして笑った。
今度の笑みは、先ほどまでとは明らかに違った。
警戒する相手を見る顔ではない。
男は少弐の肩を軽く叩き、集落の方を指した。
「入れ、と言っている」
シレトクも笑った。
少弐は小さく息を吐いた。
ここに来て初めて、彼自身も肩の力を抜いた。
沖では、北辰丸と希望が静かに浮かんでいる。
浜に残された仲間たちへ、少弐は手を上げた。
敵意なし。
受け入れられた。
その合図だった。
こうして少弐たちは、宗谷からさらに北へ踏み出して最初の樺太の集落に迎え入れられた。
そして少弐はまだ知らなかった。
この小さな集落で聞くことになる「さらに北から来る者たち」の話が、彼らの探している一角の獣へと、これまでで最も近い道を示すことになることを。




