北へ持ってゆく証
宗谷での調査を終えた夕刻、少弐はシレトクとともに長の家を訪れた。
「明日、さらに北へ向かいます。」
シレトクが訳すと、従兄弟の長は少し驚いた顔をした。
宗谷まで来る和人だけでも珍しい。
そこからさらに海峡を越えるというのである。
少弐は続けた。
「長く留守にするつもりはありません。北の海を調べ、しばらくしたらここへ戻ってきます。」
長は少弐を見つめ、それから頷いた。
何事かシレトクへ言う。
「必ず戻ってこい、だとさ。」
「もちろんです。」
その夜は、自然と別れの宴になった。
宗谷へ来た日の宴とは雰囲気が違う。
あの時は、まだ互いに珍しい客と迎える側だった。
今では子供たちはすっかりマリアたちに慣れていた。
マリアのところには、海鳥や魚について聞きたがる子供たちが集まる。
イネスの周りでは、彼女が描いた絵を見ようと子供たちが覗き込んでいた。
女衆は三人が着ている衣服を見て、まだ直したいところがあるらしく、袖や裾を引っ張って何事か話している。
特に長身のイネスの服は、最後まで丈について議論が続いていた。
ライラも最初こそ衣服を合わせるのに苦労したものの、今では女衆と身振り手振りで冗談を言い合うほどになっていた。
少弐はその様子を眺めながら、長の隣で煙草を吸っていた。
やがて北の話を切り出す。
「一つ、教えていただきたい。」
「海峡の向こうには、どのような人々がいるのですか。」
シレトクと長が少し話し合った。
長は北を指差す。
「海峡の向こうにも、俺たちと似た言葉を話す者たちがいる。」
シレトクが訳す。
「話せるのですか?」
「大体はな。」
シレトクが答えた。
「違う言い方もある。でも、全く分からないわけじゃない。」
少弐は少し安心した。
「では、長殿のお知り合いも?」
今度は長が首を横に振った。
「友人と呼べる者はいないそうだ。」
「ただ――」
シレトクが続ける。
「向こうから交易に来る者は、たまにいる。」
海峡は境界であると同時に、道でもある。
魚。
毛皮。
獣の皮。
道具。
様々なものが人とともに海峡を渡る。
少弐は頷いた。
「ならば、まずはその人々を訪ねてみます。」
すると長が少し考え込んだ。
やがて立ち上がり、家の奥から何かを持って戻ってきた。
少弐の前へ置く。
「これは?」
長は品を指差しながら、ゆっくり説明した。
シレトクが聞き終える。
「持っていけってさ。」
「向こうの者が見れば、少なくともこのコタンの長から渡された物だと分かる。」
少弐は品を両手で受け取った。
通行手形ではない。
これを持っているから従わなければならないというものでもない。
ただ、
宗谷の長が、この旅人を客として迎えた。
それを示す紹介の証だった。
「これはありがたい。」
少弐は深く頭を下げた。
「大切にいたします。」
長は何かを付け加えた。
シレトクが笑う。
「勘違いするな、とさ。」
「これを見せたからといって、向こうの連中がお前を信用するとは限らない。」
少弐も笑った。
「承知しております。」
「酒を持っていけ。」
長が言う。
「それから自分で話せ。」
少弐は思わず頷いた。
「それが一番でしょうね。」
翌朝。
浜には多くの人々が集まった。
子供たちはマリアたちに手を振る。
女衆も声を掛ける。
マリアたちも何度も振り返って手を振った。
少弐は最後に長へ頭を下げた。
「行って参ります。」
長は北を指差した。
そして今度は宗谷の浜を指差す。
行って、戻ってこい。
言葉にしなくても意味は分かった。
少弐は懐に、長から託された紹介の証をしまう。
ポラールが岸を離れた。
沖では希望号が待っている。
目の前に広がるのは宗谷海峡。
その向こうには、これまで一行が歩いたどの土地とも違う北の世界が待っていた。
一本角のカムイを追う旅は、ついに蝦夷地を越えようとしていた。




