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幼き日の、北の海の記憶

宴もすっかり賑やかになった頃、少弐は頃合いを見てシレトクへ頼んだ。


「海のカムイについて、皆さんに尋ねてもらえませんか。」


シレトクはすぐに意図を察した。


「一本角のやつだな。」


長の許しを得て、宴に集まった者たちへ問いかける。


大きな海のカムイ。


鯨のように海を渡るもの。


そして――白く長い一本の角を持つもの。


鯨。


シャチ。


オットセイ。


様々な名が出た。


だが、一本角となると皆が首を傾げた。


その時だった。


老人たちの中で、一人だけ黙っていた男が、不意に口を開いた。


「……聞いたことなら、ある。」


マリアが顔を上げた。


「どんな話です?」


シレトクが訳す。


老人はすぐには答えなかった。


昔を探すように目を細めている。


「ずっと昔だ。」


「俺がまだ、まともな名前で呼ばれるような歳でもなかった頃だ。」


老人は笑った。


「悪いものに目を付けられないようにとな。『こんな子供には何の値打ちもないぞ』というような、ひどい呼ばれ方をしていた頃だ。」


周囲の老人たちが笑った。


老人自身も笑う。


「『尻の穴』だの、そんな具合のな。」


少弐たちもつられて笑った。


だが、老人はやがて静かな表情に戻った。


「だから、よく覚えているわけじゃない。」


「話の始まりも、終わりも忘れた。」


「祖父が炉のそばで話していた。」


「昔、このコタンの長だった人だ。」


老人は目を閉じる。


幼い頃。


炉の火。


祖父の声。


その断片だけが、長い年月を越えて残っている。


「――北から来た。」


老人が呟いた。


「白くて、大きなものだった。」


少弐たちが静かになる。


老人は額の前から腕を伸ばした。


「大きな角が一本。」


「白い角だった。」


イネスが手帳へ書き留める。


「身体も白かったのですか?」


「……そう聞いた気がする。」


老人は首を傾げる。


「だが、そこは覚えていない。」


マリアは何も補わず、そのまま聞いた。


老人の記憶をこちらの期待で形作ってしまわないためだった。


やがて老人が続ける。


「鯨もいた。」


「鯨?」


「そうだ。」


「白い角のカムイが北から来た時、鯨のカムイも一緒だった。」


「連れてきたのか、一緒に来ただけなのか……そこまでは知らん。」


老人は笑った。


「何しろ、俺は『尻の穴』だったからな。」


再び笑いが起こった。


しかしマリアたちは笑いながらも、その言葉を一つも聞き漏らさなかった。


「しばらく、この辺りをうろうろしていた。」


老人は続ける。


「それから、いなくなった。」


「死んだのですか?」


「いや。」


老人は首を振った。


そして北を指差す。


「祖父は、帰ったと言っていた。」


「ここは気に入らなかったんだろう。」


「北から来て――また北へ帰った。」


少弐はマリアを見る。


マリアも少弐を見た。


これは伝承だった。


しかも、老人自身が見たものですらない。


幼児だった頃、祖父から聞かされた話の断片にすぎない。


色も、大きさも、鯨との関係も、どこまで正確なのか分からない。


だからこそ、少弐には面白かった。


話を盛るのではなく、確かな部分だけを拾える。


「北から来た。」


「一本の大きな角があった。」


「海を泳いでいた。」


「しばらく宗谷にいた。」


「そして北へ帰った。」


少弐は指を折りながら確認した。


マリアが静かに言った。


「それだけでも十分よ。」


宗谷まで来て、ようやく一本角のカムイは「この土地に棲む神獣」ではなくなった。


もっと北の海から、偶然ここまで迷い込んできた生き物。


そんな可能性が、初めて見えてきたのである。

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