宗谷の長と南海の香
シレトクに導かれ、一行は宗谷のコタンへ入った。
まず案内されたのは長の家だった。
室蘭で初めてコタンを訪れた時とは違い、少弐たちにも幾分か余裕がある。
勝手に奥へ入らない。
武器には手を触れない。
シレトクが先に挨拶を済ませ、それから客人として長の前へ進む。
少弐は静かに頭を下げた。
「しばらく、この地に滞在させていただきたい。」
シレトクが訳すと、若い長は少弐をじっと見た。
まだ三十にも届かないほどの男だった。
シレトクの従兄弟だというだけあって、どことなく目元が似ている。
少弐は持ってきた包みを開いた。
まず取り出したのは、濁り酒の瓶だった。
室蘭でも喜ばれた品である。
強い蒸留酒をいきなり持ち込むより、こちらの方がよいだろうと考えていた。
「友好の証です。」
長は瓶を受け取った。
栓を開け、香りを確かめる。
そして少量を器へ注ぎ、一口。
しばらく味わってから、満足そうに笑った。
どうやら気に入ったらしい。
だが少弐は、もう一つ包みを持っていた。
「今回は、少し長くお世話になるかもしれません。」
取り出したのは、小さな香箱だった。
光を受けると、表面に独特の艶が浮かぶ。
鼈甲で作られた舶来の香箱である。
それだけでも珍しい品だった。
蓋を開ける。
中には小さな香木が納められていた。
「これは?」
長が首を傾げる。
シレトクも覗き込んだ。
「木じゃないか。」
「ええ。」
少弐は笑った。
「ですが、ただの木ではありません。」
南方から運ばれてきた珍香だった。
長は一本摘まんで鼻へ近づける。
しかし、よく分からないらしい。
眉を寄せる。
「食べるものか?」
シレトクが訳した途端、マリアが吹き出しそうになった。
「食べません。」
少弐は室蘭でもらったキセルを取り出し、一服していた煙草の火を借りた。
そして炉の炭火へ、ごく小さな香木の欠片を置く。
最初は何も起こらなかった。
やがて――。
細い煙が立った。
ふわり。
甘く、深い香りが家の中へ広がっていく。
長の表情が変わった。
シレトクも鼻を動かす。
家の中にいた者たちまで会話を止めた。
魚とも、獣とも、草とも違う。
焚火の煙とも違う。
北の森では嗅いだことのない香りだった。
長は炉を見つめる。
それから天井へ昇っていく煙を目で追った。
何事かを小さく呟く。
「何と?」
少弐がシレトクへ尋ねる。
シレトクは少し笑った。
「カムイでも来たのか、だとさ。」
少弐は思わず香木を見る。
「これは南の海の向こうから来た木です。」
シレトクが訳す。
長はますます不思議そうな顔をした。
「南から来た木を燃やすと、カムイのような香りがするのか。」
「さて。」
少弐はキセルをくわえ、少し考えた。
「私の国でも、こういう香りは神仏へ捧げることがあります。」
それを聞いた長は、もう一度香炉代わりの炭火へ目を落とした。
酒は飲めば分かる。
鼈甲の箱も、美しいものだと分かる。
だが、この木だけは違った。
火に触れた途端、姿を失い、香りだけとなって家いっぱいに広がる。
若い長はしばらく黙っていたが、やがて香箱を大切そうに自分の前へ置いた。
そして少弐へ笑いかけた。
シレトクが訳す。
「『長くいて構わない』だそうだ。」
少弐は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
するとシレトクが横から笑う。
「やっぱり、お前の後ろには何かいるな。」
「またその話ですか。」
「室蘭では酒と煙草。」
シレトクは香りの漂う家の中を見回した。
「宗谷へ来たら、今度はカムイまで連れてきた。」
長も意味を聞いて笑った。
少弐は困った顔でキセルを吹かす。
その煙と、南海から来た珍香の煙とが、炉の上でゆっくり混じり合った。
一本角のカムイを探して遥か北までやって来た一行は、こうして宗谷でもまず、一杯の酒と一片の香から人との縁を結び始めたのであった。




