カムイに好かれる男
室蘭の入り江が遠ざかり、希望号が再び北へ帆を向けた頃だった。
甲板では、ライラがまだ気になっていたらしい。
舷側にもたれて海を眺めていたシレトクへ歩み寄る。
「ねえ、シレトク。」
「なんだ。」
「さっきの長の話。」
ライラは少弐をちらりと見る。
「娘を嫁にやるって……あれ、本気だったの?」
シレトクは少し考えてから笑った。
「半分は本気。」
「半分は冗談だ。」
「半分も本気なの?」
マリアまで振り返った。
「気に入ったんだよ、こいつを。」
シレトクは親指で少弐を指す。
少弐は困ったように笑った。
「私は大したことをした覚えがありませんが。」
「それがいいんだ。」
シレトクはそう言うと、少弐の腰にあるキセルを指した。
「それより、あれの方が本気だ。」
「キセル?」
イネスが尋ねる。
「ああ。」
シレトクは頷いた。
「煙草を分けるのは――『また俺たちの火を囲みに来い』ってことさ。」
少弐は懐に入れた煙草へ目を落とした。
「では、キセルは?」
「『お前と、また話がしたい』。」
シレトクはあっさり答えた。
「だから大事にしろよ。」
「次にあの村へ行った時、それを持っていれば長は喜ぶ。」
少弐は改めてキセルを眺めた。
昨夜まで何の意味も持たなかった一本の道具が、急に重みを増したように感じられた。
「……それは、なくせませんね。」
「ああ。」
シレトクは笑った。
それから、不意に少弐の顔をじっと見る。
「それにな。」
「お前と箱館で初めて会った時から、なんとなく思っていた。」
少弐が首を傾げる。
「何をです。」
「お前、カムイに好かれる。」
「……私が?」
「ああ。」
シレトクは妙に真面目だった。
「どこへ行っても人が寄ってくる。」
「酒を飲めば話が始まる。」
「話が始まれば、最後には笑っている。」
「昨日だってそうだ。」
「知らない異国人を乗せた大きな船が突然やって来たんだ。普通ならもっと警戒する。」
シレトクは肩をすくめる。
「それが帰る頃には、煙草をもらって、キセルをもらって、娘までやると言われている。」
ライラが吹き出した。
「確かに。」
「最後の一つは余計です。」
少弐が返す。
笑いが起こった。
しかしシレトクだけは、まだ少弐を見ていた。
「人だけじゃない。」
「いいカムイまで、お前を面白がって後ろからついて歩いている。」
「そんな感じがする。」
少弐は苦笑した。
「カムイに好かれている、ですか。」
シレトクはしばらく考え――突然、嬉しそうに笑った。
「決めた。」
「何をです?」
「お前の北での呼び名だ。」
シレトクは少弐の肩を叩く。
「『カムイに好かれる男』。」
マリアが笑った。
「いいじゃない。」
イネスも頷く。
「少弐さんらしいかもしれません。」
だがライラは少し考えてから、悪戯っぽく笑った。
「それなら――『カムイが惚れる男』の方がいいんじゃない?」
「やめてください。」
少弐が即座に拒否する。
シレトクは腹を抱えて笑った。
「それだ!」
「よし、決まりだ。」
「何も決まっていません。」
「カムイが惚れる男!」
「やめなさい。」
甲板に笑い声が響いた。
その日から船の仲間たちの間で、少弐には妙な呼び名が一つ増えた。
――カムイに好かれる男。
シレトクだけは時折、もっと愉快そうに、
――カムイが惚れる男。
そう呼んだ。
少弐本人は最後まで嫌がったが、不思議なことに、その呼び名は北へ進むほど少しずつ一行の間に馴染んでいくのであった。




