蝦夷地の情勢
その夜、希望号の甲板では静かな宴が開かれていた。
北の海は夕暮れになってもどこか明るく、涼しい潮風が心地よく吹いている。
少弐は酒杯を傾けながら、シレトクへ尋ねた。
「シレトク殿。」
「これから北へ向かう前に、蝦夷地の情勢を教えていただけませんか。」
シレトクは杯を置き、静かに頷いた。
「俺の知る限りでよければ。」
少弐は地図を広げる。
「まず、この箱館へ来る和人は、どこの大名の者が多いのでしょう。」
シレトクは迷わず答えた。
「一番多いのは津軽だ。」
「海が近いからな。」
「その次が南部。」
「どちらも商人や漁師を送り込んできている。」
「さらに安東の者も来る。」
「北の海を昔から知っているのは、あの連中だ。」
少弐は頷きながら書き留める。
「安東氏ですか。」
「ええ。」
シレトクは続けた。
「蝦夷地へ来る和人は、ほとんどが商売だ。」
「昆布、鮭、鷹、毛皮。」
「それに海獣の皮や牙。」
「武士は少ない。」
「商人と船乗りの方がずっと多い。」
マリアが興味深そうに尋ねた。
「では、この蝦夷地を治めている王様のような人はいるのですか。」
シレトクは笑った。
「そんな者はいない。」
「和人の館はある。」
「だが、その外はそれぞれのカムイを祀る村があり、それぞれ長がいる。」
「皆が一つにまとまっているわけじゃない。」
ライラが尋ねる。
「争いもあるの。」
「ある。」
シレトクは素直に答える。
「漁場も猟場も限りがある。」
「村同士で争うこともある。」
「だが、大きな敵が来れば助け合う。」
少弐は地図のさらに北を指差した。
「宗谷より先は。」
シレトクの表情が少し引き締まる。
「そこまで行けば、和人はほとんど見なくなる。」
「いるのはアイヌの村ばかりだ。」
「さらに東、西へ行けば、それぞれ言葉や暮らしも少しずつ違う。」
イネスは驚いた。
「同じアイヌでも違うのですか。」
「ああ。」
「海で暮らす者。」
「山で暮らす者。」
「川で暮らす者。」
「皆、それぞれ違う。」
少弐は興味深そうに頷いた。
「つまり、一つの国というより、多くの村々が交易で結ばれている世界なのですね。」
「その通りだ。」
シレトクは杯を干した。
「だから北へ行くなら、村ごとに長へ挨拶することだ。」
「礼を尽くせば迎えてくれる。」
「だが、礼を欠けば海へ追い返される。」
マリアは笑顔で頷いた。
「その役目は私たちですね。」
少弐も静かに笑う。
「ええ。」
「この旅も、まずは人との出会いから始まりそうです。」
北の海を渡る風が帆を優しく揺らした。
四人は新たな世界への期待を胸に、静かに杯を掲げた。




