カムイの伝承
六月の箱館は、初夏の澄んだ空気に包まれていた。
本州では梅雨を迎える頃であるが、この北の地にはまだ長雨の気配はない。
青空の下、涼しい海風が港を吹き抜け、人々は思い思いに交易へ励んでいた。
少弐たちは護衛と案内人に連れられ、市中を歩く。
港には昆布、鮭、熊や鹿の毛皮、鷹羽、海獣の皮など、畿内では目にすることのない品々が並んでいた。
マリアは目を輝かせながら、一軒一軒の店を覗いていく。
「一本角はありませんか。」
「珍しい角でも構いません。」
しかし返ってくる答えは皆同じだった。
「そんなものは見たことがない。」
見つかるのはオットセイの牙。
あるいは大きな鯨の骨。
セイウチらしき牙も一、二本見かけたが、西海寺に伝わる螺旋の鋒に似たものはどこにもなかった。
夕暮れ、一行は館へ戻る。
和人の頭が酒を勧めると、少弐は西海寺で聞いた話を語り始めた。
「津軽には、一角竜の伝承があります。」
「海より一本角を持つ竜神が現れ、その角を田村麻呂へ授けたという話です。」
館の隅で黙って聞いていた護衛の一人が、小さく笑った。
日に焼けた肌に、蝦夷の衣をまとったアイヌの男である。
「それは……カムイだな。」
四人は一斉に男を見た。
マリアが身を乗り出す。
「カムイ?」
男は静かに頷く。
「ああ。」
「海には、とても大きなカムイがいる。」
「人を助けることもあれば、怒れば船を沈めることもある。」
ライラが尋ねる。
「そのカムイには、一本角があるのですか。」
男は少し考え、ゆっくり答えた。
「一本角を持つカムイの話は、年寄りから聞いたことがある。」
「だが、それは箱館の近くではない。」
「もっと北。」
「もっと冷たい海だ。」
館は静まり返った。
少弐は静かに尋ねる。
「そのカムイは、竜なのですか。」
男は不思議そうな顔をした。
「竜?」
「いや。」
「泳ぐ。」
「大きな体で海を進む。」
「潮を吹き、尾で海を打つ。」
「魚のようでもあり、獣のようでもある。」
イネスは思わずマリアを見た。
それは、西海寺の住職が「竜ではなく鯨や海獣ではないか」と語った姿に、どこか重なっていた。
男は酒を一口飲み、静かに続ける。
「そのカムイのことを知る者は、もっと北にいる。」
「ここより先の海へ行けば、古い話を知る老人もいるだろう。」
マリアは胸の前で拳を握りしめた。
「やっぱり……。」
少弐も静かに頷く。
津軽で途切れかけていた一本角の伝承は、箱館で再び一本の糸となって北へ伸び始めていた。
その糸の先にこそ、ユニコーンの角の真実が待っているのかもしれなかった。




