北海の祝杯
北海の祝杯
日が沈み始める頃。
「希望」は穏やかな海を北へ進んでいた。
甲板では長机が並べられ、安宅友通が用意させた西洋の葡萄酒が静かに注がれていく。
「少弐殿。」
安宅が杯を掲げた。
「葛西との約定、そして南部との契約。」
「見事なお働きでした。」
船員たちからも拍手が起こる。
少弐は少し照れくさそうに笑った。
「皆様のお力添えがあってこそです。」
「乾杯!」
「乾杯!」
杯が触れ合い、澄んだ音が北の海へ響いた。
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酒宴が進むにつれ、船内は賑やかになっていく。
マリアは船員たちと故郷ポルトガルの歌を口ずさみ、イネスは珍しい北国の魚について船乗りへ質問していた。
ライラも珍しく笑い声を上げている。
少弐はその光景を眺めながら、一人静かに葡萄酒を口へ運んだ。
肩の力が抜ける。
葛西。
南部。
どちらの外交も思い描いた以上の成果だった。
「少弐。」
ふいに声がした。
顔を上げると、ライラが杯を片手に立っていた。
「隣、いい?」
「もちろん。」
ライラは自然な仕草で腰を下ろす。
少し酒が回っているのだろう。
普段より表情が柔らかい。
「今日は珍しく笑っていたわね。」
「そうでしたか。」
「ええ。」
ライラは少し身を乗り出した。
「あなた、いつも難しい顔ばかりしてるもの。」
少弐は苦笑する。
「仕事柄でしょう。」
「今日は違った。」
ライラは少弐の顔を覗き込むように見つめる。
「本当に嬉しそうだった。」
距離が近い。
褐色の肌。
潮風に揺れる黒髪。
異国の血を感じさせる整った顔立ち。
剣士らしい凛々しさがある一方で、その笑顔にはどこか人懐っこい愛嬌があった。
少弐は思わず視線を逸らしそうになる。
ライラはそんな様子にも気付かず、小さく笑う。
「頑張ったもの。」
「今日は胸を張っていい日よ。」
そう言って、少弐の肩を軽く叩いた。
「お疲れさま。」
その何気ない一言が、不思議なほど心に染みた。
少弐はこれまで数え切れない交渉を経験してきた。
成功しても失敗しても、次の仕事が待っている。
誰かに労われることなど、ほとんどなかった。
だからこそ。
「……ありがとうございます。」
その言葉は自然と口をついて出た。
ライラはにっこりと笑う。
「どういたしまして。」
「でも、飲み過ぎはだめよ?」
「明日も頭を使うんだから。」
その屈託のない笑顔に、少弐も思わず笑った。
甲板ではマリアと船員たちの歌声が続いている。
イネスはその様子を微笑ましく眺めていた。
少弐は静かに葡萄酒を飲み干す。
胸の高鳴りは、外交の成功だけではなかった。
長い旅を共にし、互いに命を預け合い、笑い合い、支え合ってきた日々。
いつの間にか、ライラの存在は仲間という言葉だけでは言い表せないほど大きくなっていた。
まだ、それが何という感情なのか、自分でもはっきりとは分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
ライラが笑っていてくれると、自分も自然と笑ってしまうということだった。
北の海を渡る「希望」は、祝福するような夜風を受けながら、静かに津軽への航路を進んでいった。




