祝杯
八戸での滞在を終えると、一行は再び「希望」へ乗り込んだ。
次なる目的地は津軽。
陸路でも行けぬことはない。
しかし、山深く道のりも長い。
安宅友通は海図を広げながら言った。
「このまま海路で北上した方が早うございます。」
少弐も頷く。
「北方航路を調べる旅です。」
「船で進めるところは、できるだけ船を使いましょう。」
こうして「希望」は錨を上げ、坂東フリガッタ艦隊に護衛されながら、さらに北を目指した。
海は穏やかだった。
五月の風はまだ少し冷たいが、帆を膨らませるにはちょうどよい。
甲板ではマリアが操船を指揮し、ライラは船員たちと剣の稽古を眺め、イネスは今日も北の海鳥を写生している。
その中で、少弐だけは珍しく表情が違っていた。
「……嬉しそうね。」
マリアが笑う。
少弐は少し照れくさそうに笑い返した。
「分かりますか。」
「ええ。」
イネスも微笑む。
「平泉ではずっと難しい顔をしていたもの。」
ライラは腕を組んだ。
「八戸で何か吹っ切れた?」
少弐は水平線を眺めながら静かに答えた。
「正直に申し上げます。」
三人は顔を向ける。
「今回ほど外交がうまくいくとは思っていませんでした。」
葛西とは交易の道を開いた。
南部とは船の契約を結び、将来の造船協力まで約した。
気仙沼という玄関口も定まった。
少弐は静かに笑う。
「氏治様へ良い土産話ができます。」
その笑顔は、普段の穏やかなものとは違っていた。
若い外交官が、大きな仕事をやり遂げた時だけ見せる、心からの安堵と喜びだった。
その様子を見ていた安宅友通は、船員へ目配せする。
しばらくすると、大きな木箱が甲板へ運ばれてきた。
「少弐殿。」
「何でしょう。」
安宅は蓋を開ける。
中には細長いガラス瓶が何本も並んでいた。
マリアが目を丸くする。
「ワイン!」
安宅は笑った。
「鹿島を発つ前に、大掾様から預かっておりました。」
「『少弐殿が良い仕事をなされた時に開けよ』とのことです。」
少弐は思わず吹き出した。
「そこまで読まれていましたか。」
甲板には木杯が並べられる。
赤い葡萄酒が静かに注がれた。
マリアは香りを確かめ、嬉しそうに笑う。
「久しぶりの故郷の味。」
イネスも杯を手に取る。
「北の海で飲むワインも悪くないわね。」
ライラは少しだけ口を付ける。
「祝杯なら、いただかないと。」
安宅も杯を掲げた。
「葛西との約定。」
「南部との契約。」
「そして北方航路の成功を願って。」
少弐はゆっくりと立ち上がる。
潮風が髪を揺らした。
「皆さん。」
「ここまで来られたのは、私一人の力ではありません。」
マリアを見る。
「船を預かる船長がいて。」
イネスを見る。
「知識を記録する医師がいて。」
ライラを見る。
「仲間を守る剣士がいて。」
そして安宅へ向き直る。
「さらに、大掾殿や氏治様、多くの方々が道を開いてくださいました。」
少弐は杯を高く掲げる。
「この旅の無事と。」
「まだ見ぬ北方航路に。」
「乾杯。」
「乾杯!」
澄んだ音が北の海へ響いた。
夕日に照らされた「希望」は、祝福されるように帆をいっぱいに広げる。
津軽は、もうすぐである。
そして、その先には。
坂上田村麻呂が鋒を捧げたという伝説の地と、まだ誰も見たことのない北方世界が、一行を静かに待っていた。




